適当に差し入れてもらった雑誌を読み終えた時、ちょうど看護師が点滴を取りかえに部屋へ入ってきた。
「具合はどうですか?」
にこやかに話しかけてくれる女性は俺の担当で、この職業にしてはかなり若い部類だ。年齢でいえば大学生の俺とおそらく三つか四つほどしか離れていないだろう。
「ん、だいぶよくなっとると思う」
「そうですか、大事にならなくてよかったですね。明日には、お粥くらいなら食べられるようになると思いますよ」
ベッドの脇で点滴のパックを新しく交換してくれる彼女の言葉にひとつ頷き、俺は閉じた雑誌をサイドチェストへ置いた。
まだ食べ物を口にすることはできないしそんな気分でもないので食事ができないのは大した問題ではないのだが、先に許可を取っておきたいことがあったのだ。
「交換終わったら、ちょっとだけここ出てもええかの」
「あら、何か欲しいものでもあるんですか?言ってくれれば売店で買ってきますよ」
エッチな本とかは売ってないですけど、と冗談を交えて快く提案をしてくれる彼女には、まさに白衣の天使という名がふさわしかった。けれど
「あー…ええと、おかんに電話してきたいんじゃ」
誤魔化そうとしてとっさに出た相手の名前は、なぜか母親だった。これはこれで逆に変な印象を与えてしまった気がする。
何とも言えず頬をかく俺に、看護師は真意を知ってか知らずか「長電話はしないようにね」とくすっと笑った。
一応防寒のためのカーディガンを羽織り、お供に点滴台を連れて院内の廊下を歩く。途中のエレベーターで、車椅子に乗った小学生ほどの子供と一緒になった。車椅子を押している保護者と思しき者との会話を聞いていると、どうやらサッカーの練習中に足を骨折してしまったらしい。
「早く治らないかなあ」とため息交じりで、しかし日頃あまり利用することがない、座っているだけでらくらく移動ができる車椅子に遊園地のアトラクションのような新鮮さも感じているようだった。
この少年も自分もここにいる理由はさほど深刻ではないが、体の内か外か、いずれかにイレギュラーを抱えた者が集うこういった場所には、普段は真っ白い壁で覆い隠されている負の部分も少なからずあるのだろう。
きっと自分のほうが先にここを出てしまうからもう会うこともないだろうが、がんばれよと心の中で一つエールを送りエレベーターを降りた。
そのまま受付の横を通りペタペタと薄いスリッパで歩みを進めていると、売店の向かい、廊下の端に目当てのものが見えてくる。最近ではすっかり数が少なくなった公衆電話も、携帯が使用禁止な病院の中には備え付けられているのだ。
点滴台を横に置いて緑色の大きな受話器を取り、パジャマのポケットから数枚の小銭を取り出して投入口へ入れる。すでに暗記してしまった番号のボタンを押せば、3コール目で早くも繋がった。
『もしもし雅治!?』
「おう。なんじゃ、いきなりうるさい奴じゃの」
初っ端からキーンと耳に響いたその声に、耳にあてた受話器を思わず離す。
『だって病院携帯使えんけんこっちから連絡取れんし、ずっと心配しとったとや!』
「連絡取れんて、一時間ごとにメール送ってくる奴がよう言うわ」
ポケットの中にある携帯の受信フォルダは、すでに上から下までお前の名前で埋まってしまった。それを聞いた千歳は楽しそうにけらけらと笑う。
「もう、笑い事やないんじゃけど。俺めんどいからフォルダ分けとかしとらんし、大事なメール見逃しとったらお前のせいじゃからな」
『なら、これを機会に俺フォルダ作るとよかよ。俺はとっくに雅治フォルダ作っちょるばい!』
「帰ったら見せちゃる」と嬉々として語っているが、誰が自分が送ったメールなど見たがるだろうか。普段はめんどくさがってメールを返さず友人たちに怒られてばかりいるくせに、本当にこういうところだけはちゃっかりしている。
『それに家帰ったら玄関で雅治倒れとるんやもん、ほんなこつびっくりしたばい。心配するのも当然っちゃろ』
電話の向こう側の声色が急に真面目なものになる。
そう、俺は昨日の昼頃に倒れてここへ運ばれてきた。俺自身は痛みで意識が朦朧としてほとんど記憶がないのだが、買い物から帰宅した千歳が居間で倒れている俺を見つけて119番したらしい。夕方に気がついた時にはすでに病院のベッドの上で、目が覚めた俺を待っていたのは目に涙をためた千歳の熱い抱擁…ではなくて、容赦のないげんこつだった。
「あだっ!!?何するんじゃ!!」
「何するもクソもなか!!あれだけあのカレーは食っちゃいかんち言うたとや!?」
脳天に響いた激痛で生理的に滲んだ涙の向こう、千歳は珍しく頭からツノが生えそうなほどに激昂していた。しかしその怒り方にはどこか見覚えがある、なぜだろう。
「あれは腐っとるけん、俺が帰ってきたら片付けるち言うといたはずばい!!」
起き抜けにいきなり声を荒らげたので、荒れに荒れているだろう腹が気持ち悪く震える。
そう、俺は食あたりで倒れて運ばれたのだった。
「何もなくてどうしても腹減っとったんじゃき、しょうがなかろうが!それにお前それ言ったの俺が二度寝しとるときじゃろ、そげな大事なことなら置き手紙でも書いていきんしゃい!」
正直こうなった九割は俺が原因なのだが、残りの一割を全身全霊で責任転嫁し千歳に押し付ける。半ば逆切れしてくってかかった俺に千歳はため息をついて腕を伸ばした。
「ほんなこつ、心臓止まるかと思ったと……」
体格的に、端から見れば千歳が俺に覆いかぶさっているような形なのに、今日はなんだか腕を回したその背中がどこか小さく感じる。
ぎゅっと抱きしめられてしまえば表情は見えないけれど「あんま、心配させんで」と鼓膜を揺らす頼りない声が、何よりも雄弁に今の千歳の心境を語っていた。
「…すまん」
そうだ。どこかで覚えがあると思ったこの感じは、危険な悪さをした子供を怒る母親の、あのかんじだ。
抱きしめることで存在を確認しているような千歳の腕の中にしばらくおとなしく閉じ込められていると、ドアがコンコンとノックされる。その音に肩を吊り上げ千歳を押しのけるのと看護師が部屋に入ってくるのはほぼ同時だった。
「あら、目が覚めました?具合はどうです?」
「ぜ、全然大丈夫です」
まさか今の様子を見られただろうか、思わず答え方がぎこちなくなる。
「そう、それはよかったです。それで入院についてなんだけど…」
なんだと。入院しないといけないようなものなのか、と口を開こうとすると同時に、横に突っ立っていた千歳が大きく声を上げた。
「あーっ!!そうたい、いつまでもここにおる場合やなか!雅治、さっき実家から電話きて、俺今から急に熊本ば帰らんといけんくなったと。さっき家帰ってこれにパジャマとか歯ブラシとか色々詰め込んで来たけん使ってな!入院とか具合とか、また何かわかったらすぐ連絡くれんね!!」
そう早口でせわしなくまくしたてると、千歳は生活用品を詰め込んできたらしいバッグをベッドへ載せてすぐさま病室を後にする。まさに嵐のようだった。
「なんじゃ、忙しいやつじゃの」
「一応院内は走らないで欲しいんだけどねぇ…」
カルテらしきものが覗くファイルを抱えて看護師が苦笑する。もっともだ。それにそんなに急いでいるなら、それこそこのバッグと置き手紙だけ置いて行ってくれればよかったのに。
時間がおしている中俺が目を覚ますまでここで待っていてくれたのかと思うと、なんだか恥ずかしいような、嬉しいような。点滴の針を刺されながら、もう片方の手で置き土産のたんこぶをさすった。
「あー、そんで入院なんじゃけど、あと今日だけ泊まって明日には帰ってもええって」
飯はまだ粥くらいしか食べられないらしいが、家に帰れると聞いた千歳はひどく喜んだ。
『ほんなこつ!俺も明日の夜にはそっち着くように帰るばい。土産にこっちの地酒とでこぽんゼリー買ったけん、ゼリーなら食べられっとやろ?』
「そうじゃなぁ。でもでこぽんてデカイんじゃろ?一個はきついかもしれんきに、半分こして食おう」
電話機の上に積んだ小銭を取って、また投入口に追加する。長袖のカーディガンからちょっとしか指を出さないのは女子のようだとも思うが、大事なのは見た目よりも防寒だろう。
「もう用事は済んだんか?」
『うん、オヤジが大変やけんすぐ帰って来いち言われて何ごとかと思ったばってん、ただ俺があんまり顔立さんけんカマかけただけやったと…おかげで昨日はしこたま宴会ば付き合わされたばい』
何もよりによってこの時じゃなくても…と恨めしげに語っている。
「はは、そりゃあお前が悪いナリ」
『ばってん今度美味い馬刺し屋連れてってもらう約束したけん。もちろん雅治のこつも伝えてあるけん、一緒に行くばい!』
本当にただでは起きない男だ。早くも次の里帰りのことを考えている(そしてそこには勝手に俺も含まれている)千歳の現金さに思わず笑ってしまう。
『それよか雅治のほうこそ大丈夫と?病室に変な奴とかおらん??』
「なんじゃそれ。生憎じゃが、同室は俺以外にはジイさんと子供しかおらんぜよ」
浮気ができなくて残念だと言えば、帰ったらすぐに満足させちゃるけんと笑っていた。
「ん、もうこんな時間か。そろそろ部屋に戻らんと」
長電話はいけないと釘を刺されていたし、ちょうど持ってきた小銭も底をついていた。
『ありゃ、時間経つんは早かねぇ。まぁ風邪引いてもいけんし、気をつけて戻りなっせ』
「お前こそ新幹線で寝過ごしたらいけんよ。じゃあな」
一時の別れを告げて、持ち手がすっかりあたたかくなった受話器を置く。さぁ病室に戻ろうかというところで、昨日千歳が去った後の看護師の言葉を思い出した。
点滴をするために俺の腕の中で最適な場所を探していた時だ。
「一応院内は走らないで欲しいんだけどねぇ……それにしても、驚いたわ」
千歳が去ったドアを見つめて、あんな顔で笑ったりするのね、と彼女は言った。
「ん?」
「ああ、いえね、あなたが運ばれてきた時のことなんだけど。さっきの彼、すごい顔してたから」
救急車から降りてストレッチャーで室内に運ばれる時、看護師の腕を掴んで言ったそうだ。
「臓器やら血液やら何か必要なものがあるなら遠慮なく俺のを使ってくれて構わないから、何があっても助けてくれ、って」
長くこの病院に勤務している医師が俺を診てくれたそうなのだが、その医師すらもあんなに鬼気迫った、それでいて今にも崩れてしまいそうな顔は初めて見たと言っていたらしい。
「…なんじゃそれ」
血液も何も、俺とお前ではそもそも血液型が違うではないか、とか、ただの食あたりで大げさな、とか。突っ込みたいことは沢山ありつつ、けれどその時の千歳を見られなかったことを、少しくやしくも思ってしまったのだった。
無機質な電話機に、ほのかに火照った額を押し当てる。薄目を開けて、はあ、と溢れたため息は熱を持っていた。少し汗が滲んだてのひらを、カーディガンの生地ごと握る。
千歳がくれたものはメールだけじゃない。今着ているカーディガンも、さっきまで読んでいた雑誌も、全て千歳がくれたものだ。俺が退屈しないように。俺が寒い思いをしないように。
(ああもう、あいつ、誰にでも振りまいてるんやなかよ)
目を閉じれば浮かぶあの笑顔以外に違う表情を持っている千歳を、自分は知らない。もしかしたら一生知る日も来ないのかもしれないし、それでいいのかもしれない。
ただ、千歳の自分への気持ちが頭のてっぺんからつま先に至るまで、もはや全ての血となって身体を循環しているのではないかと思うほどに心臓があたたかい。
(惚れられでもしたら、どうすんじゃ)
千歳が腕を掴んだというその人は、俺の担当の看護師だった。
あとでメールを返すついでに文句を言ってやろう。放置していた点滴台を持って病室へと歩き出したその時、ポケットに入れた携帯が震える。振動するそれを取り出せば、つけられたトトロと小トトロのストラップがじゃれあうように並んで揺れた。差出人はもうわかっている。
(20111013)
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