朝の空気は、視覚よりも耳で感じることが多い。早朝のベランダにひとりきり、手摺りに乗せた腕でほおずえをつく。新聞配達の自転車、犬の鳴き声、遠くの救急車のサイレン。早朝はそういった音ひとつひとつが集音器のように耳に吸い寄せられる。
すうっと深呼吸をすれば腰に鈍痛が走った。腰、というか尻を軽くさすりながら、後ろの部屋で眠る恋人を思う。有り余る手足を布団からはみ出させ、それでも気持ち良さそうに寝ているに違いない。
(…いい気なもんじゃの)
最近は互いに忙しくて中々生活のリズムが合わず、体を重ねたのは久しぶりだった。もちろん自分も恋人も自慰だけで満足できる淡泊なタチではないので、昨夜は抜かずに4発、穴がひりついてもう無理だと泣いても行為が止むことはなかった。
少しだけ肌寒く、適当に羽織ったシャツの前をとめると、ふわりと恋人のにおいがした。畳と、太陽と、乾いた草のにおい。
それが同時に、昨夜のことを思い出させる。彼の熱がこもった瞳はいつだって、どんな力強い腕や雄弁な言葉よりも、自分を捕らえて離さないのだ。
はぁ、と熱を孕むため息が出る。
自分の衣服にまでにおいがつくほど一緒にいる。けれどこれはほんのはじまりで、いつか気付かないほどまでに馴染んでしまう日が来るのだろう。混ざり合ったふたつのにおいが、ふたりのものになる日が。
(あー…もったいないんか、うれしいんか)
なんとも言えない気持ちで腕に顔を埋めると、背後のガラスがカラカラと音を立てた。
「雅治、おはよう」
首もとがよれたスウェットの寝間着姿の恋人がのっそりと姿を現す。しまらない格好にボサボサ頭はいかにも寝起きだが、その顔はやけにすっきりとしていた。
「なんじゃ、起こしてしもたか?」
「ううん、雅治が起きた時から起きとったとよ。ばってんこっそりチューとかしてくれるんかなち思っとってもいっちょんしてくれんし帰ってこんしで、痺れ切らしてしもたばい」
「……おまえ、詐欺師を出し抜くとはいい度胸じゃのう…」
「いっ!ひたたたた!すまんて!ほれ、冷えたらいけんから飲みなっせ」
悪びれもなく狸寝入りを告白したそいつの鼻を思い切りつまんでやる。(騙された。一瞬悩んだものの、やはり目覚めのキスなどしなくてよかった)
千歳は情けない声をあげ、両手に持っていたマグカップの片方を差し出す。
「なんじゃこれ」
「ホットミルクばい。雅治、季節の変わり目は弱かろ?」
「ふうん…まぁ、お前にしては気が利くのう」
うっすらと表面に張った膜を吹きかけた息でどかし、一口口をつけた。


「それにしても、朝は静かやね」
「そうじゃのう。あと何時間かしたら工事が始まるけどな」
今俺達のアパートの近くではビルの突貫工事が行われている。なんでも新たに大型のスーパーができるそうだ。
「まぁうるさいのはしょんなかね。ばってん、あれができたら買い物がずっと楽になるばい」
完成したらいちばんに行って、材料買って、一緒にメシ作るばい。千歳はその未来が見えているかのように朗らかに笑った。
「時期的に冬は無理じゃろうから、来年の春か、下手すりゃ夏じゃな」
簡単な料理が多い夏場に一緒に作れるものなどあっただろうか。冷し中華か、豚しゃぶか?
まだ冬を迎えてもいないのに、そんなに先のことを真剣に考えている自分に気づく。確証もない約束に心を踊らせるのは愚かだろうが、最近はこういったらしくない自分も、嫌いではないのだ。
「それより先に、コタツを買わんといかんぜよ。なんなら今日でも見に行くか」
「よかねぇ。備えあれば憂いなし、ばい」
千歳は嬉しそうに俺のこめかみに唇を落とす。普段であれば誰が見ているかわからないと足を踏ん付けてやるところだが、今日だけは髪の毛のくすぐったさに耐えて享受してやろう。何せ今は早朝で、更には神様も出張中だと言うではないか。
(同じ、ミルクのにおいがするのう)
共に過ごした夏はおもちゃ箱の中に顔をひそめ、秋の風がカーテンを揺らした。