深夜の歩道を、千歳とふたり歩いていた。時間帯の為か横の道路を流れる車の数はけして多くはない。しかし都会ゆえに途切れることのないその波が、通り過ぎるたびにわずかにライトの残像を残していく。
空を見上げた。冬が近いからかどこか空気は澄んでいて、例えるなら、深い藍色と黒との間。そんな色をしていた。
「寒くなか?」
車道側を歩く千歳が、つないだ手を軽く握りなおして言った。
「ん、大丈夫じゃ。ありがとさん」
平熱が低く低血圧な俺と違い、千歳の手はとてもあたたかかった。この大きな手のひらの下には確かに脈打つ血が流れているんだと、感じさせてくれる温度だった。
道の端には、ちょうど歩道橋があった。この橋を登ると、ちょうど反対側の歩道に降りられる。ここで折り返してマンションに帰ろうと俺たちは階段へ足をかけた。
そして予想通りというか、のぼりきった階段の先、先ほど横を通っていた道路の真上。橋渡しとなる通路部分には人っ子一人いなかった。
「貸切ばい」
穏やかに千歳は笑った。
橋の欄干部分に腕を乗せ、ふたりで目線の直線上、果てしなく続いているような道路の向こう側を眺めていた。心地よい沈黙の中、千歳が口を開く。ひとつひとつの言葉が波紋となって、水面を優しく揺らした。
「最初にこっちに来た時は星もろくに見えん汚かところやち思っちょったばってん、時間がたてば、綺麗に感じるものもあるもんっちゃねぇ」
足元では、いくつもの光が星のように流れていた。まるで世界が逆さまになってしまったように。
「それだけお前が東京に馴染んできたっちゅうことじゃろ」
なにしろ千歳はここで、すでに大阪にいた頃より遥かに長い時間を過ごしていた。
「そうかぁ……うん、そうかもしれんね。俺自身、どっかに腰据えるこつで自分の価値観ばこぎゃん風に変わるげな、思っとらんかったばい」
少しだけ感慨に浸った声に導かれ視線を向ければ、千歳の、夜の海のような瞳に閉じ込められた、いくつかの煌めきを見つけた。小さなそれらはただ単に車の光を反射しているだけなのだが、確かにその中には、無限の宇宙が広がっていた。
黒曜石の星図。その中に自分も入れてほしいと年甲斐もなくメルヘンに、そしてこれ以上なく切実に、願っていた。
「ふふ、例え自分のことでも、いつどうなるかなんて誰にもわからんよ。昔の俺だって、まさか俺たちがこげに長く一緒におることになるなんて全く思っとらんかったしな」
むき出しのうなじを羽衣のような風が撫でていく。あの頃首筋を覆っていた長い襟足は、とうに姿を消していた。
「そう……そうやね。ばってん、俺はいまのここが、一番気にいっとうよ」
他のどこにも行きたくない。言葉を交わさずとも伝わる気持ちに、微笑みで返した。きっとあの頃よりは刺のない表情ができているはずだ。
緩慢に、そして絶え間なく流れていく時間の波をここで止めることができたならどれだけいいだろう。橋の欄干から手を放し、頭上の顔を見上げた。
キスせんか、と言った。
「ここで?」
「おん。誰もおらんし、たまにはええじゃろ」
「俺はよかばってん…雅治がこげなん言うん、珍しかね」
「嫌か?」
「いや、いっちょん」
千歳は数多の星が輝くその瞳の中に俺を捕らえて、優しく微笑んだ。目を閉じて少しだけ顔を上げると、やわらかい感触がくちびるに降りてくる。
一般的に恋人との理想の身長差は二十センチだと、どこかで聞いたことがある。だとすれば今の俺たちもそれなりに絵になっているのかもしれない。ただひとつ、どちらも男同士であることを除けば。
両耳をふさがれて交わすキスは、まるで世界から切り離されたようだった。遠い宇宙をひとりで漂いながら、俺は今この現場を、千歳の親の知り合いか誰かが目撃してくれないだろうかと思っていた。そして目撃者経由で千歳の親か、またはそれに近しい人物が俺たちの関係を知ってむりやりに別れさせるのだ。そんな0.1%の確率に賭けた関係の破滅を、俺は望んでいた。
例えば、殻つきの胡桃を素手で握りつぶせる者がいるだろうか?きっと探せば世の中にはいるのだろうが、少なくとも俺には無理だ。力の限り握りしめても些細な圧力など意にも介さず、変わらぬ姿でけろりとしているに違いない。けれどここから落とせばどうだ?この橋の上から落とせば地面に落ちた胡桃はすぐさに車に踏みつぶされ、木端微塵になるだろう。俺の気持ちもきっと、そんなものだった。
千歳のことは好きだ。俺たちの間に存在するものが愛でないならきっと、この世に愛なんてものはないんだと言い切れるくらいに、いっそくるおしく思うほどに愛している。けれど絶対的硬度を持っていると信じていた胡桃が、一度手から離れてしまったら?抗いきれないほど強大な力で砕かれてしまったとしたら?だとしたらその時俺は、千歳を信じ切れるだろうか。
くちづけは長く続いた。珍しく舌を入れることもなく、唇をついばむわけでもない。ただただずっと、口を軽く開いて互いの唇を重ね合わせていた。これがほんの数年前なら、触れても触れてもまだ足りないと、肉体の境目を埋めるように貪欲に貪りあっていたはずだ。
学生時代から猿のようにセックスをしまくっていた俺たちも、もう二十代後半にさしかかっていた。そして俺たちはどちらも長男で家業があった。と言っても俺の家は自営業でもなんでもないし、いざとなれば弟がいる。多少の寂しささえこらえれば、実家と縁を切り生きていくことになったってなんの問題もない。しかし千歳は違う。陶芸家の父を持ち、それでいて兄弟は妹ひとりだ。特に千歳は妹を可愛がっていたし、実家を捨てるなんて簡単にできるわけはなかった。
家業、結婚、世継ぎ。ささやかながらも満たされた日々を重ねるごとに、そんな単語が頭をよぎっては影を残して消えていく。例え世界が逆さまになったって、しがらみの鎖は何一つ俺達を縛り付けて離さない。けして届かぬ空をあおぐだけの道か、落ちれば真っ逆さまな背徳の道か。下か上か、どちらの地に足をつけて歩いていくかというだけの話だ。
(もし、足を踏み外したら)
その時千歳は、落ちてくれるだろうか。俺と一緒に。
ゆっくりと、唇が離れた。
気がつけばまだ湿った感触が残る唇から「好きじゃ」とこぼれていた。それは誰に向けたわけでもない、単にぽろりと地に落ちた言葉だ。そして千歳はその言葉を拾い上げ「俺も」と微笑した。
濃紺の闇に、柔らかく灯る明かりのようだった。心の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜる嵐が起こる。風が吹き、海は荒れ、俺は行き先を見失う。果てしない旅路の唯一の希望であるその灯台は、いつまでそこに在り続けてくれるのだろう。
永遠を願えないうえに手を離すことさえ許してくれない千歳を口汚く、めちゃくちゃに罵ってしまいたかった。いつだってそうだ。千歳はいつだってこうして俺が人知れず捨ててしまうものを何度だって拾い上げて、それ以上の温度を与えてもう一度手渡してくれる。
ぐっと瞳を閉じて、目の前の胸に頭を押し当てた。
「ふふ、今日は甘えたさんやね」
昔からずっと変わらない、あたたかく大きな手が優しく頭を撫でる。歳を重ねた今だからこそできる、心を撫でる優しい手つきだった。
なぜか『雅治』と、初めて名前を呼ばれた日のことを思い出した。
「…今だけじゃ」
歳をとると涙もろくなる。そして、何かを失うことに臆病になる。ちょうど、別離への希望を0.1%の可能性にしか賭ける勇気がないように。けれど泣きたくないときに限って涙が出るのは、子供の頃から何一つ変わらないことだった。
(20111016)
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