休日の昼下がり、ダイニングテーブルに座った仁王がなにやら電卓を叩き「うーん」と珍しく頭を抱えていた。
「なんね雅治、どぎゃんしたと?」
大学のテストはまだ先だし、それに仁王はテスト前にわざわざ勉強するタイプでもない。履修しているのはレポート提出で単位がもらえる科目がほとんどのはずだ。手にしたカップをテーブルに置きどうしたのかと声をかけると「ちょうどいい時に来た」と言わんばかりに顔をあげた。
「おう千歳、ちょっとこれ見てみんしゃい」
「これ」と言って見せられたのは、なんの変哲もない大学ノートだ。パラパラとめくると中にはなんだか細かい数式(右上がりの特徴的な仁王の筆跡だ)と、ページの左上にはそれぞれ長さの違ういくつかの薄い紙が貼りつけられている。よく見るとそれはスーパーやコンビニのレシートだった。
「なんね?これ」
突如突きつけられたそれに未だきょとんと首を傾げる俺に、仁王はきっぱりと言った。
「カケイボじゃ」
カケイボ?仁王が口にした四文字を頭の中で反芻する。カケイボ。かけいぼ。
「あ、家計簿か」
少しのタイムラグの後でようやく言葉の意味を理解する。ぽんと手を打った俺に仁王は軽くため息をついた。
「まったく、相変わらずお前はのん気じゃの…」
「だって俺早うから親元離れちょるし、家計簿なんちほとんど見たことなかもん」
そう言えば小さい頃、母が居間の大きなテーブルにレシートを広げてノートに何か書き込んでいるのを見たことがある気がする。
「懐かしかねぇ」
仁王手製の家計簿をめくりながら「母ちゃん元気にしとるかなぁ」とついこないだ電話で話したばかり(ついでにあっちの新鮮な野菜なんかも送ってもらったばかりだ)の故郷の母を懐かしんでみたりする。
「思い出に浸っとる場合じゃないぜよ。よぉ見てみんしゃい」
次の長期休暇で一度仁王を連れて実家に帰るか、などと考えていたところで、ノートの裏側をパンと弾かれて我に帰る。
「んん?見てみんしゃいって…」
言われるがまま、先程より詳しくページに目を通す。一枚、またじっくり読んで一枚とページをめくり、ノートを仁王に返して持った感想はたったひとつだった。
「うん、真っ赤やね」
そう、ページをめくれどめくれど、収支を表す数字はどれも赤のボールペンで太く記入されていたのだ。
「やっとわかったか」
「うん、これはいかんばい」
確かに、我が家の家計が大変危ないことになっているのはわかった。しかしそうは言ってもまだ自分たちは学生だ。別に車のローンや借金があるわけでもない。
「あんま贅沢はできんかもしれんけん、別にそげに焦らんでもよかよ」
才気で見ても自分たちが路頭に迷う未来など見えない。今までよりほんの少しだけ節約を心がげたらいいだけだと笑って仁王の肩を抱こうとすれば、仁王はこともなげに言った。
「それならそれで構わんが、このままじゃと年末の旅行に行けんくなるかもしれんぞ」
その言葉を聞いて、今まで緩んでいた頭のネジがみるみるうちにしまっていく。
「な、なして!?旅行用に積立貯金しとっとや、別にこのままの生活続けとったら影響なかろ!!?」
年末にはふたりで北海道旅行をしようと、だいぶ前から計画を立てていた。都会育ちの仁王と、九州で育った俺。せっかくだから中々行く機会のない本州の上の方で美味いものを食べようと行き先を決め、更に奮発して一週間羽を伸ばそうと決めていたのだ。ここ数ヶ月旅行へ向けてきちんと貯金も始めていたのに、まさか金銭的問題でそれがなくなる可能性があるなんて考えもしなかった。
「俺も最初はそう思っとったんじゃが、これからの季節、なんだかんだで金がかかるじゃろ。んでちょっと不安になって柳生に相談してみたら『家計簿をつけてみてはいかがでしょう』って提案されてな。で、色々計算してみたらコート買ったら一・二万なんてすぐ飛んでくし、ガス代電気代。それにこないだ確認したらヒーターも壊れとったから、買い換えんといけん」
要するにこのままだと、それらの費用を今までの旅行の積立金から捻出するしかないと言う。
「…そ、そげな……」
まるで足場が抜けるような絶望感に襲われる。幼い頃に一度、ふらりと訪れた北海道の大地。じゃがいも農家を手伝った時に見た広大な自然と大地を、仁王にも絶対に見せてやりたかったのに。
「まぁそういうことじゃ。どうしても行きたいなら、今日から節約生活するぜよ!」
ちなみに今日の晩飯当番は仁王だったのだが、早速の節約ということでメニューは俺の実家から届いたじゃがいもをレンジでチンしたじゃがバターらしい。それは節約ではなく手抜きではないだろうか。
「…にしても雅治、コタツあるんやけん、ヒーターは我慢したらよかろ?」
「ダメじゃ。俺が部屋おる時困るじゃろうが」
ここは譲れないと言わんばかりにキリッと答える仁王は、こと暑さと寒さに関しては譲らなかった。
「雅治はこう見えて意外と頑固者ばい…まぁよか。じゃあ節約っちこつで、風呂も一緒に入るばい!」
ちなみにさっき風呂掃除は済ませており、湯ももう沸かしてあるのだ。有無をいわさず仁王を担ぎ上げ、うきうきと風呂場へ向かう。ぎゃっと声を上げた仁王がボカボカと背中を叩いた。
「ちょっ!それ節約じゃのうて、おまんがしたいだけじゃろうが!」
服を脱ぎ先に入浴していた仁王を後ろから抱きかかえるようにして浴槽へ入れば、嵩が増し収まりきらなかった湯がザーザーと溢れた。もちろん節約を意識して、溢れる湯の下に桶を置くのは忘れずに。
「あー…気持ちよかねぇ。ばってん、次から湯ば張んのは腰のあたりまでにせんと」
もちろん学生マンションの風呂が男二人で入るように設計されているわけもなく、必然的に肌はぴったりと触れ合うことになる。白くくゆる湯気と触れ合う濡れた肌の感触は、なんとも心を開放してくれる。
「ゲ。毎日一緒に入るつもりか」
「当たり前ばい!旅行は絶対実現させたかもん」
そりゃあこうして同じ家で過ごす毎日も幸せだが、ふたりで飛び出す非日常の世界も、それはそれは楽しいだろう。
「バターコーンラーメン食べたかねぇ〜。あと築地と、雪ん中の露天風呂と、ラベンダー畑は時期ズレだけん、ダイアモンドダストは見れっかねぇ?」
仁王の腰にまわした手で行きたいところ、やりたいことを指折り数える。
「雅治はどこ行きたか?」
汗と蒸気でぺたりと肌に張り付いた後ろ髪をすくってやる。
「…俺は別に、どこでもええよ」
「よかよか、じゃあまたガイド見て一緒に決めっばい!」
ぎゅうっと抱きしめた白い肢体の、桜色のうなじにくちびるを落とす。仁王本人すら見たことがないところをひとりじめしている事実は、この上なく甘く胸をしめつけた。
何も満たされているのは湯だけでない。それ以外にもあふれそうなものをいつだって抱えていることを、仁王は知っているだろうか?
「なぁ雅治、やっぱりヒーターば必要とや?」
その声に顔を上げ、腕の中でこちらを見上げる仁王と見つめ合うことたっぷり約五秒。頬がゆるみ蒲鉾みたいになっているであろう俺の瞳と、仁王の猫のような物言わぬ瞳。
いくら言っても伝わらないことがあるように、言葉にしなくても伝わるものも、確かにある。
「……ジンギスカンの為じゃ」
湯たんぽになりんしゃいよ。こつんと俺の胸を叩く。
無造作にはねた髪がしんなりとしていつもよりあどけない雰囲気になった仁王は、くたりとその身を委ねた。