アパートの部屋までの鉄骨階段をリズムよくカンカンと登る。普段なら遠く感じる駅からの道のりも、今日だけは早く感じた。相手が自分より先に帰宅しているだろうことはわかっているので、ノブを回せば鍵を差し込むことなく扉が開く。
狭いアパートなので扉の横はすぐ台所になっており、同居人はちょうどそこでペットボトルの飲み物を飲んでいた。言外に「おかえり」と伝える瞳にニッと口角を上げ、手に持ったクーラーボックスを持ち上げる。
「千歳、海老もらったぜよ!」
彼はペットボトルに口をつけたまま、ぱちぱちと目をしばたかせた。
「おおー!!これはすごかねぇ!」
部屋へ移動させたクーラーボックスを開けた千歳が、中身を見て声を上げる。
「そうじゃろそうじゃろ。今日久しぶりに幸村に会ったんじゃがな、幸村の親父さんが会社の取引先からもらったとかなんとかで、自分ちだけじゃ食べ切れんからってくれたんじゃ」
そしてもらったものはただのぼたん海老ではなく、ぶどう海老と言われる稀少な高級種らしい。クーラーボックスにぎゅっと詰められたそれらは、海産物にあまり詳しくない自分たちでもいいものだとわかるくらいに部屋の照明を赤・白・黄・紫と色とりどりに反射して輝いていた。
「こりゃあ食べ甲斐ありそうばい。ばってん、もう揚げ物するには遅か時間やね。さしおり半分だけ残しといて、今から刺身にして食うとや?」
残りは明日天ぷらにして食べようと言う千歳の提案に、俺は一も二もなく頷いた。
『ゆっくりやると旨みが逃げちゃうから、解凍は手早く行うこと!』という幸村の言葉が蘇る。それを意識して手順は聞いたとおり、凍った海老をポリ袋へ入れ、それを袋ごと片手鍋に入れて二十分ほど水道水をかけ、表面だけを溶かせば完了だ。次に殻を剥こうと袋の封を開けた時、千歳が何かひらめいたように手を叩いた。
「何じゃ、どうしたん?」
「ちょうど今日、実家から送ってもろた日本酒が届いたんばい!ついさっき冷蔵庫入れたばっかだけん、冷えすぎてなくてちょうどよかよ」
千歳が言うには熊本の有名な大吟醸酒で、売れ筋故に中々手に入らない貴重な酒らしい。
「ほう、そりゃええのう」
「とっておきの時に飲もうち思っとったばってん、せっかくだけん今日開けっばい!」
上機嫌に鼻歌を歌いながら、二人分のグラスを持って居間の小さなテーブルへ向かう。酒の用意は千歳に任せることにして、俺は早速海老の殻を剥き始めた。
数分もすれば用意は整い、テーブルの上にはそれぞれ用意した酒と海老が並んでいる。できるだけ雰囲気を出そうと、今日は普段あまり使わない焼き物の食器なんかを引っ張りだしてきたのだ。自分たちにしては珍しく凝った趣向と、未知の感動を秘めたふたつの存在に心が踊る。
「さて、食うか」
「そうやね」
まずは海老からだ。ふたりしてどこかわくわくと一尾つまみあげ、ぱくりと頬張る。そして一噛みした瞬間に顔を見合わせた。
「っな、なんじゃこれ!うまっ!!」
「プリップリしとるばい!!」
まるで自分の口癖のようなことを言う千歳に突っ込むことも忘れ、むぐむぐと口を動かす。冷凍物特有の生臭さは一切無く、普通の海老より遥かに甘みが強い。飲み込んだあとも口の中には濃厚な旨みがずっと残っていた。
「海老って、こんなうまかったんか…」
「全くばい…」
いつも選べるなら肉ばかり食べている身としては驚くばかりで、更にこんないいものを笑ってプレゼントしてくれた幸村にも、中学の頃はこっそり魔王だのなんだの言ってすまんかったと素直に謝れそうな気分である。(まぁ普段あまり余裕のない生活をしているからこそここまでの感慨があるのかもしれないが)
そんなことを考えながらそれぞれ2・3尾噛み締めたところで、放置してあった日本酒の存在を思い出した。
「あ、これも開けっばい」
千歳が脇に置いてあった日本酒の蓋をひねり、トクトクとグラスに注いでくれる。
「『香露』?」
ラベルにはそう大きく書かれてある。
「うん。これ一回呑んだら、もう他の大吟醸は呑めんち言われちょるくらいの代物ばい!地元でも売り切れだらけ、ネットでも中々出回らんとや」
千歳は嬉々として語っている。けれど
「俺、日本酒あんま得意じゃないんじゃけど…」
注がれたコップを前に少しだけ腰が引ける。実は以前、日本酒で悪酔いして戻したという苦い思い出があるのだ。
「それ居酒屋で出される安い酒とや?これはいっちょんそんなこつなかけん、飲んでみなっせ!」
せっかく封を切ってくれたのだ。ここまで勧められといて、今更飲まないというわけにもいくまい。ええいと腹を決めグラスへ口をつける。ごくりと喉を通せば、いつものものとは違うのどごしがあった。
「んん……?これ、なんか不思議な味じゃのう」
味は確かに日本酒なのだが、日本酒ではないような深みがある。その風味に誘われるようにもう一度口をつければ、千歳は満足そうに笑った。
「やろやろ!雅治は絶対気に入るち思っとったばい!」
千歳自身も口をつけながら「もっと飲みなっせ」と更にグラスに酒が注がれる。そして俺も勧められるがままに喉を鳴らした。
どれだけゆっくり食べ続けても、やはり数十分後には海老の姿はほぼなくなっていた。もはやBGMと化したテレビの音声を尻目に日本酒をあおると、ニコニコと最後の一尾に手を伸ばす千歳に僅かな悪戯心が顔を出した。
「あっ!」
その手が海老に触れる直前に、さっと横からかっさらって口に含んでしまう。
「雅治、ずるかよ!」
「ふふー、早い者勝ちじゃ」
行儀も悪く「あー」と口の中を見せ、その引き締まった身をくふふと噛み締める。
ああ、頭がふわふわする。こんなに気持ちよく酒に酔ったのは何時ぶりだろう?
どこか勝ち誇った気分で意識を他所に向けていると、千歳がのっそりとこちらへ手を伸ばしてきていた。
「俺にもちょうだい…」
「ん?んぅ、んん…ッ!」
強く頭を引き寄せられ、強引にくちびるが重なる。髪をくしゃくしゃと揉むように後頭部をしっかりと固定され、熱い舌が触れ合うほどにどんどん口づけは深くなった。口内の海老が何度も互いの口の中を往復して、歯が柔らかく身に食い込み、そしてぐちゅぐちゅになって溶けていく。
きっと今の俺の脳みそも、こんなかんじだ。
ついに背中が全て床について、もっと、とねだるように千歳の首に両腕をまわした。緩慢に、そして甘やかに溶かされていく脳を感じながら、どんどんと顔がほころんでいく。
「ん…どげんしたと?」
顔真っ赤にして。そう微笑みながら問う千歳の顔もわずかに蒸気しており、瞳には酒のせいだけじゃない、誤魔化し切れない熱情が宿っていた。
「…いや、しあわせじゃなぁって」
美味い食べ物と美味い酒。そしてそれらを世界で一番愛する者と口にする歓び。
一体これ以上、何を望めと言うのだろう?
「天国じゃ」
千歳の大きな手のひらを取り、熱を持った頬へ当てる。包むように触れたその手もまた、強い熱を持っていた。
(ずっと、このままでいられたら)
俺の目尻をそっと親指でなぞった千歳が笑う。
「まだまだ、こんなもんやなかよ」
既にテレビの音など聞こえない、遠い世界にふたりきりだった。もう一つの熱く、大きな手のひらが服の下の素肌を這う。口づけを鍵に、もっと奥の世界への扉が開く。
(ああ、そうか)
ここは単なる入り口で、今から俺たちは一緒に、更なる天国への階段を登るのだ。
はぐれてしまわないように、重ねた手をぎゅっと握り直した。
(20111008)
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