『帰宅したら、まず手洗いとうがいをする』。これは早くに親元を離れてからも欠かさず行なっていることだ。地元熊本は蛇口をひねれば天然水が出ると言われるほど自然に恵まれた土地だったが、幸か不幸かもうカルキのにおいのする水道水にもすっかり慣れてしまった。いくつか洗いざらしの食器が放置されているシンクでジャバジャバと手を洗い、今日の臨時収入を持って風呂場へと向かう。
数時間もあればいいだろうか。今から二度寝をして、目が覚めてからのおやつにしようか。そんなことを考えながら浮き足立って、たてつけの悪い引き戸を開く。そして微かにひび割れた磨りガラスの向こう、現れた姿に俺はヒッと息を飲んだ。
小さな椅子もシャワーヘッドもミント色のタイルも、何一つ変わりはない、ただ見るからにひんやりとしたステンレス素材の狭い浴槽の中で、誰かが三角座りをしている。思わず背筋が凍る様を目にした体はまるで石のように固まったが、思考だけは妙に冷静だった。泥棒か、水場で死んだ幽霊か、はたまた今まで泣かせた女の怨念か。思いついたあらゆるパターンのいずれであっても困るのだが、しかしその心配は杞憂に終わった。なぜなら浴槽で膝を抱えてうなだれる特徴的な銀髪には見覚えがあったからだ。
「な、何ね雅治、どぎゃんしたと…?」
しかし見知った相手とはいえ、いきなりその姿が自宅の浴槽に収まっていて驚かないわけがない。恐る恐るといった面持ちで声をかけた俺に対し、仁王は憮然として言った。
「…振られた」
大方予想はついていたが、俺はああ、やっぱり、と思った。
「なして?今回は、大事にしてくれる人やち言うとったとや??」
なるべく刺激しないように、目線を合わせて優しく問いかける。仁王は膝に埋めた顔の、目だけ覗かせてこちらを見やった。泣きはらしたのだろう、普段からただでさえ鋭い目付きが瞼が腫れてぽってりと、更に鋭利なものになっている。
「……あんまりエッチ、しとうないんじゃって。強請っとったら、付き合いきれんて言われた」
ううん、なるほど。それは仁王にとっては結構なダメージであろう。別れを突きつけられた仁王の、表情には出さなくとも内心これ以上ない絶望にうちひしがれている様を思い浮かべるとまさに「可哀想」の一言に尽きた。確かこの間の男は実は妻子持ちで、その前は金だけ持って逃げられた。そしてその前は、相手が麻薬か恐喝かで逮捕されたんだったっけ?
「大丈夫ばい。きっともっと雅治にぴったりの人ば現われるけん、俺にはわかっとよ」
親身なようで無責任な言葉を並べて、赤みを残した目尻に唇を寄せる。仁王は何も言わなかった。
俺と仁王はいわゆるセックスフレンドだった。俺は彼女がいようといまいと気持ちと肉体の快楽とは別物だと考えているので恋人の有無はあまり気にしていないが、仁王はこう見えて意外と義理堅いので、フリーの時しか俺とはやらない。彼氏ができたら俺から離れ、振られたら猫のようにまた俺のもとへ身を寄せる。(ちなみに俺はバイだが仁王は真性のゲイだ)
「にしても、いつからここにおったと?」
まさか一晩中と言う訳でもあるまい。それは流石に恐ろしすぎる。
「…一時間くらい前じゃ。昨日は一人でさんざん飲んで朝帰りで、でもひとりの部屋は帰りとうないきにここ来たらお前もおらんし、狭いところのほうが落ち着くけん」
一時間前、と言うことは俺が散歩に出てすぐくらいか。ちょうどすれ違いだったのだろう。
「それよりそれ、なんなん」
まだ少し鼻声で「それ」と仁王は俺の持つビニール袋を指さした。
「ん?ああ、葡萄ばい。今日は早く目ぇ覚めたけん散歩しちょったら、八百屋のおばさんが「早起きやねぇ」ち言うてくれたとや」
ビニール袋から取り出して、房にたくさん連なる紫色の実を見せてやる。そもそも俺が風呂場に来たのも、今は冷蔵庫が壊れているので氷水に浸して冷やそうと桶を取りに来たからだった。
「ふうん…」
「粒もおっきくて、ごろごろして美味そうっちゃろ?これ買ったら結構な値段すっとや。今から冷やすけん、後で一緒に食べるばい」
傷ついた時は、美味いものを食べるのが一番だ。なんならこれを冷やしている間にセックスするのも悪くない。
「それ、ちょうだい」
「え?」
「やけんそれ、欲しい。今」
「ばってん、持って帰ってきたばっかりで冷えとらんとよ?」
「ええよ。今欲しい」
「うーん…雅治がいいっち言うならよかばってん…」
俺としてはきちんと冷やしてから一緒に食べたかったのだが、仁王も一晩泣いて腹が空いているのかもしれない。そもそも小食な仁王が自ら何かを食べたいと言い出すことは稀なので、適度なサイズに房をちぎって数個の果実の連なりを渡してやる。
「ほい」
しかし仁王は手渡された数個ではなく、俺の手首を力強く掴んで大きな房にむしゃぶりついた。その獣のような突発的行動に俺はまた驚き、それでも浴槽から伸びる仁王の白いうなじや、絶え間なく繰り返される咀嚼運動と上下する喉仏から目が離せなかった。重量がありぽってりとした果実に次々と仁王の歯が食い込み、赤ピンクの口内に吸い込まれていく。仁王の頬は膨らんで、懸命に口を動かす度に口の端からは紫色の果汁が溢れた。何度も何度も歯でプレスするように実を噛み潰し、飲み込み、口内の体積が縮小していくのがわかる。俺はやはりそれを黙って見ていることしかできない。そしてあらかた咀嚼し終えると、仁王は一言「皮」とだけ言った。
「ああ、ちゃんと剥いて食べんといけんね。ほれ、ここに出しなっせ」
口元に手のひらをあてがってやる。口内には実を絞りつくした大量の皮しか残っていないはずなのに、しかし仁王はなぜか涙を滲ませるだけでその口を開こうとはしなかった。
こういうところが、俺にとって仁王の理解し難いところだ。快楽だけで生きればいいのに。甘い実だけを食べて、不味い皮はすぐさま吐き出すか、最初から口にしなければいいのだ。しかし仁王はそれをよしとせず、いつまで経っても皮を口から出そうとしない。俺の知らないところでさよならをしたどこかの誰かさんたちの中では甘い思い出などとっくの昔に消化され、既に排泄物として体外に排出されているというのに。
愛したものはすぐ口の中で萎んでしまう可哀想な仁王と、皮にもなりきれない可哀想な俺。似た者どうし、結構お似合いだと思うのだけれど。そう言えばキスのひとつでもしてくれないだろうか。
手に持った葡萄の房からひとつ、潰れた実を口に含んだ。