「散歩に行くばい」
朝飯兼昼飯を食べ終えた千歳が、ふと思いついたように言った。確かに今日の空は高く青く澄んだ秋晴れで、室内にこもっているにはもったいない散歩日和だ。けれど、
「お前これから学校じゃろ」
それは俺も同様で、すでに玄関には無印で一緒に買ったプラスチックのかばん(見分けるために、千歳のには持ち手部分にトトロのマスコットがくくりつけられている)が、持ち出される時を望んで仲良く並んでいる。
「一日くらいサボったって平気たい。あ、雅治は気にせず学校行ってよかよ」
んじゃ、ちょっと行ってくったい。思い立ったが吉日とこんな時だけ軽い腰を持ち上げ、食べ終えた食器をシンクへ置くといそいそと玄関へ向かう。相変わらずの気ままさにひとつ頭を掻き、俺も自分の食器を食洗機へ入れてスイッチを押すとその後を追った。玄関では千歳がすっかり休日用となった鉄下駄をつっかけ、鍵類が入った缶ケースからジジのストラップがついた家の鍵を取り出したところだった。その脇で自分もスニーカーに足を突っ込み、靴紐を結び直す。
「あれ?雅治も来っと?」
「お前だけいい思いしようったって、そうはいかんぜよ」
座った足元からその巨体を見あげれば、頭上の顔は嬉しそうにへらりとほころぶ。
(それにしても、こうして下のアングルから見ると本当に巨神兵じゃな、こいつ)
立ち上がるために差し出された手が、あのトゲトゲの長い腕とデジャブする。並んだかばんを置き去りに手ぶらで家を出て、施錠する際に閉まりかけた扉。靴箱の上の鍵類が入った缶ケースの横で、ラピュタのステンドグラスを模したフォトフレームの中で笑う俺達が見えた。
「さーて、どこ行くかねぇ」
「せっかくじゃき、紅葉とかイチョウとか見たいのう」
「おっ、よかねえ。じゃあちょっと足伸ばして、大通りの並木道ん方行ってみるばい」
俺たちの住むアパートは住宅街にあって、立地的にはそれほどよくない。駅まで徒歩二十分。大通りに出るには、そこからさらに十五分ほど歩かなければならない。けれどふたりでのんびりと他愛もない話をしていれば、案外あっという間に着いてしまうものだ。
「うーん、カチカチじゃのう」
「もうちょい上のほう取ればよかったかねぇ?」
先ほど寄ったコンビニで買ったパピコを二人で分けて、まぐまぐと口を動かした。如何せん固まりすぎていて、なかなかアイスが出てこない。
「手であっためとけばよかよ」
「めんどいのう…」
ガジガジと飲み口を噛む。これはストローでもやってしまう俺の癖だ。
「ええい、お前のよこしんしゃい!」
「あっ、こら!」
先程から千歳の大きな手のひらであたためられていたパピコは、やはり吸えばすぐに中身が出てきた。そしてかわりに「これをあっためろ」と飲み口が少しいびつになったパピコを渡す。
「もう、別によかばってん…」
そんなこんなでいい歳こいた男二人でチューチューアイスを吸いながらいくつかの信号を渡ると、辿り着いたその道は一面鮮やかな黄色に染まっていた。
「わ〜!!綺麗かねぇ!」
「ほんまじゃのう」
イチョウの絨毯へ歩を進める。しばらくしたところで千歳が「あっ!」と声をあげた。
「ドングリばいた!」
千歳はうきうきとお目当ての物のところへ歩み寄る。普段から自然大好き人間であるが、ドングリや木の実といったものは特に彼のジブリ心を刺激するらしい。「5つもあったばい〜」と下駄を鳴らして嬉しそうに帰ってくるその足がふいに止まった。
「なんじゃ、どうしたん?」
「ん。いや、何か踏んだとや…?」
千歳は足を上げ、下駄の裏を覗き込む。ふわりとこちらまで独特の悪臭が香った。このにおいには覚えがある。
「おま、うんこ踏んだじゃろ!こっち来るんやなか!」
「う、うんこやなか!!これ銀杏ばい!見なっせ!!」
「銀杏も匂い的にはうんことさして変わらんじゃろうが!」
ばっちいと鼻をつまんで手を振ると、千歳も必死に銀杏を見せようと近づいてくる。ギャーギャーと追いかけっこをしていると、通りに沿って出来ている石塀の上から何かがポトッと、ちょうど俺達の間に落ちてきた。
「ん…?なんじゃ、これ」
「なんね」
二人でその”落ちてきたもの”を覗き込む。鼻をつまむ手はそのままに、持ち上げた手のひらサイズのそれはやけに手に馴染んだ。かつて俺たちも毎日のように手にしていて、今ではすっかり懐かしくなった「それ」。
石塀の上にあるフェンスがカシャンと音を立てる。見上げればラケットを持った少年(中学生くらいだろうか)がこちらの手元を見て、安心したように声を上げた。
「すいませーん!そのボール、俺のなんです!」
「んじゃ、気ぃつけてな」
「はい、ありがとうございましたー!」
石塀の先にある階段を登ったそこは運動公園になっていた。落としたボールを受け取った少年は頭を下げ、元気にコートへと戻って行く。テニスコートは少し奥のほうにあるらしいが、大きく弧を描いたボールがフェンスを飛び越えてしまったらしい。まったく、いつの時代にも大ホームランをかます奴はいるものだ。きっとそれぞれ頭で思い浮かべた奴は違うだろうが、それでも見上げた千歳と俺は、同じ顔をしていた。
「…なんじゃ、思うところありそうな顔しとるのう?」
「ははっ、雅治もばい!」
自分たちのあの頃を思い出し、記憶のページをめくる。同じ顔をしていても、懐かしさの中の感傷が色濃いのは千歳のほうだろう。
千歳は中学三年時の、高校生との合同合宿を最後にラケットを置いた。合宿中もよくトリートメントルームに通い診断を受けていたが、これ以上左目だけに頼ってテニスはできないと判断したらしい。コーチ陣は治療を平行して行えば高校でも、と引き止めたが、千歳は「何事も引き際が肝心ばい」と笑っていた。当時は大して親しくなかったものの、少し痛みを残すその笑顔を、今でも覚えている。
「そろそろ帰るか」
階段を降りて石塀に沿って来た道をゆっくり歩いていると、確かに上の方からパーンとラリーの音が聞こえてくる。さく、さくとイチョウの絨毯を踏み分けながら、軽快なボールのやりとりに耳を澄ませる。それを聞いて蘇るのは、はじめてラケットを握ったあの春。灼熱の太陽の下でボールを追いかけたあの夏。最高学年が引退した代変わりのあの秋。かじかむ手でボールを握りしめた、あの冬。
「懐かしいのう」
駆けて行く少年の背中を反芻しながら、思い出す当時の記憶。誰もが「もっと上へ」と競い過ごしたあの頃は、今が昔になっていくだなんてこと、考えたこともなかった。
「そうやねえ」
群雄割拠の時代を共にした旧友で、今は恋人となった千歳が笑う。
今が昔になっていく。あと数年後の俺達も今日のことを思い出し「そんなこともあったな
」と笑っているのだろうか?
「千歳、今度はここにテニスしに来るか」
唐突な提案に、千歳はぱちりとひとつまばたきをした。含みを持たせてにやりと口端を吊り上げれば、ふっと糸がたわむように千歳の表情も変わる。
「そういや俺たち、サシでやりあったことなかもんねぇ。いくら雅治でも遠慮せんばい?」
「望むところじゃ。返り討ちにしてやるぜよ」
眠っていた勝負への本能が目を覚ます。時の流れを止めることはできない。けれど俺たちは、いつだってあの頃に帰ることができるのだ。
鮮やかな黄色の絨毯に、二人ぶんの足跡が刻まれていく。あの時流した汗は確かに、今の俺たちの足元を支えていた。