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U-17合宿前です。




胸にひんやりとした感触が走り、部屋に静寂が落ちる。「うっかり乳首が立ちそうです」なんて冗談が言える雰囲気ではなかった。
「先生、どうですか?」
問うたのは自分ではなく柳だった。
「……うん、経過も順調だね。先日の大会ではいきなり体を酷使したようで心配だったが、病気になる前のからだづくりが役に立っているようだよ」
担当医は聴診器をはずし、よかったね、と微笑みかけた。
「だけどまだ定期健診は必要だから、忙しいとは思うけど忘れないようにね」
「はあい」
間延びした返事に、先生は肩を軽くすくめる。一見呆れたようなその視線は、すぐに自分の後ろに立ったままの彼に向けられた。
「君、今日は連れてきてくれてありがとう。これからもよく見といてやってね」
「はい。今回は遅くなってすみませんでした、以後気をつけます。ありがとうございました」
腹までまくり上げたシャツを下ろして身なりを整えている間に、柳は流れるような所作で俺に上着を渡し、先生に頭を下げ、それでは失礼しますと引き戸を開ける。柳の隣で待機していた看護師は、タイミングをうかがい細かく動きながらもついには立ち尽くしていただけだった。気が利くのは結構だが、看護師さんの仕事を奪ってしまうのはいかがなものだろう。
「蓮二さあ、そういうとこ、どうかと思うよ」
「何の話だ」
「……まあいいや」
俺のスケジュールを俺より把握している、優秀で、しかし相手を立てる細やかな心配りには欠ける男に促されて部屋を出た。

「精市、荷物を」
「大丈夫、自分で持てるよ」
皆といるときはそんなこと言ってこないのに、二人になると途端に俺の体を気遣った言動をする。
「あーあ、部活休みたくなかったのになあ〜」
「元はといえば、オフの日に入っていた検診をすっぽかしたお前が悪い」
「すっぽかしたなんてやめてよ、人聞き悪いなあ。忘れてただけだよ」
「そう言うが、その日、お前が跡部からの部長会の誘いに『え〜、予定があるんだけど……まあいっか。行くよ』と返事をした裏は取れている」
「……あはは」
顔に微笑みを貼り付けながら、内心で跡部を呪う。
「いいじゃない、美味い料理を味わいながら他校の情報が手に入るなんて一石二鳥だよ」
腹の探り合いだとしても、後輩の為に残す情報は多いに越したことはない。
「……しかし」
なんだか今日はやけに食い下がってくるな。ねちねちと詰められるのは好みじゃなくて、相手にも聞こえるようにわざと大きく息を吐いた。
「ねえ」
二つの足音が廊下で止まる。
「蓮二って、そんな心配性だったっけ」
普段は閉じられている涼やかな瞳か少しだけ開かれる。流石に蓮二も気分を害したらしい。
「……茶化すなよ、精市」
ここに赤也がいたら、一触即発だとあわてふためくだろうか。しかし俺はこういう張り詰めた空気が嫌いではなかった。しばし無言で視線の糸を結ぶ廊下に、窓の外の鳥の泣き声が響く。
「……まあいいや。そんなに心配してくれるならさ、一個わがまま聞いてよ」
「精市」
前へ振り向きながら笑って、ひとりで歩みを進める。廊下の角に差し掛かり、上へと向かう階段の中腹に差し掛かった時に声が聞こえた。
「おい精市、部活は」
振り向くと、階段の下から柳がこちらを見上げている。普段は彼を見上げてばかりなのでそのアングルはなかなか新鮮で、悪くなかった。
「今日はもういいや。こっちに来て。話をしようよ」
階段を登りきり扉に手をかけると、今度はため息が聞こえた。

荷物を置いて、プラスチックのベンチ椅子に腰掛ける。
「ここに来るのも久しぶりだね」
大きく深呼吸をした。ほんの数十分でも、入院時のことをいやでも思い出す場所にいるのは自分で思っているよりもストレスだったらしい。扉の横に置かれた自動販売機と、シーツを干すための洗濯棒。変わらないなと思うが、そういえば自分が退院してまだ一ヶ月程しか経っていないのだ。劇的に変わっているはずもない。
「……ねえ蓮二、覚えてる?いちばんはじめにみんなが見舞いに来てくれて、病室じゃうるさいからって、ここにきたんだよね」
「違う。お前が空を見たいと言い出して、本当は安静にしていなきゃいけないのを俺たちで先生を説得して屋上へ行く許可をもらったんだ」
「あれ、そうだっけ。ふふ、まあなんにせよ、思い出の場所だね」
「……さっきまでは病院から離れたくて仕方がなさそうだったのに、今度はそこを『思い出の場所』とは達者な口だな」
「でも、思い出の場所には違いないよ」
季節もそろそろ秋に変わろうとしている。少しだけ冷え込んだ風が髪の毛を揺らした。
「だって、あれが手術までに、ガラス越しじゃなく最後に見た空だったから」
用心棒のように俺の横に立っている彼を見上げ笑う。すると彼は一言「つめろ」と言った。腰を浮かせて移動した一人分のスペースに腰を掛ける。大きく息を吸い込むと、何かを考えこむように眉間に手を当てた。
「いい天気だね。涼しくなってきたし、こんな日はぼんやり空を眺めるのもいいかもしれない」
人物画だけでなく、ゆっくりと空をうつろう雲を描くのも楽しそうだ。両手の親指と人差し指を上下に合わせて、空を切りとるフレームを作って覗いた。
「……精市、何を考えている?今日のお前は」
「たまにはいいだろ?」
フレームを柳に合わせ、カメラマン気取りで「笑って」と言えば呆れたようなため息をついた。
「もう、冗談通じないなあ蓮二は。別に、ただいい機会だから、けじめをつけようと思っただけだよ」
「けじめ?」
「うん、全国も終わったからさ」
空に向かって大きく伸びをした。数カ月前にパジャマで座っていた椅子に今は制服で座っているなんて変な感じだ。
「今まで、俺の夢に付き合ってくれてありがとう」
言えば、柳はまた僅かに瞳を見開いた。
「今まで真田とは時々二人で話す機会があったけど、蓮二とは中々時間が取れなかったからさ」
夏が終わった。俺たちにとって、中学最後の全国大会だった。
目標。約束。誓い。似たような言葉は数あれど、俺にとって勝利とは一言で言うなら『絶対』だった。立海三連覇も同様だ。しかし時に呪縛となってきりきりと心を締めあげるそれを信じ続け、勝利の道を拓きながら突き進んだ最後の最後で、これまで信じて疑わなかった理を根底から打ち砕かれた。そしてその欠片をひとつずつ拾い集めることは、想像以上に恐怖を伴った。
これまで自分が必死に積み上げてきたものは宝石ではなく、ただの石ころだったのだと気付かされそうでこわくて、手のひらを開くのがおそろしかった。今でも結局、自分の手のひらの中にあるのが何なのかわからないままだ。
しかしそれでも、握りしめた『これ』をどうしても捨てられないのだ。
きつく握りしめて血が滲んでも、やはり自分には勝つためのテニスしかないのだと、負けてなお思い知らされた。
これまでのテニスを捨てられないけれど、しかし今はそれを周囲に強制しようとは思わない。三連覇という夢が終わった今こそ、皆が自分で自分の道を選んでいける時期だ。
「……弦一郎にも、同じ事を言うつもりか?」
「まあ、時間が取れればね」
「ならばやめておいたほうがいい。全身全霊を込めて殴られる確率100%だ」
柳はそう言い捨てると「帰るぞ」と扉に向かって歩き出す。徐々に言葉の意味がわかってきて、そのひねくれた返答に思わず笑みがこぼれた。
「ねえ! そんなに俺とテニスしたい?」
背中に投げた声に柳は振り向き、凛とした声で言った。
「俺はこれでも、お前の友達のつもりだ」
わざわざ「友人」でなく「友達」という砕けた単語を使ったのは、もしかすると彼なりに考えてのことだろうか。柳が去った扉が閉まる。しばらくすると笑いがこみ上げて、少しだけ肩を揺らした。
「……やっぱり不器用だよ、ほんと」
それでいてひねくれものだ。鞄を持って後を追いかける。まったく、類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。


(20130114)