見上げた空は鬱々しく、夜だからという理由だけではない暗さをたたえている。購入した食品が詰まったビニール袋を地面に置いて、肩を落とした。最寄り駅についてからしばらく様子を見ようとスーパーに避難していたが、雨足はおさまるどころか強くなるばかりだ。
ポケットから携帯電話を取り出す。手のひらの中の機械は、ボタンを押しても何の反応も示さない。真っ暗な画面には駅の明かりの下、仕事終わりで疲れた自分の顔だけが映っていた。雨が降るなんて聞いていない。いや、そもそも寝坊してニュースを確認する時間もなかったわけだが。
突然の豪雨にざわつく者を尻目に、折り畳み傘を常備している準備のいい者はこれ見よがしに広げて帰路につく。仕事終わりで出来るなら今すぐに家に帰りたいのに、人の背中ばかりを見送るのはなんともどかしいことだろう。
その間に塾帰りの中学生だろうか。駅まで迎えに来ていた親の車に嬉々として乗り込んでいくのが見えた。少年を拾い、鮮やかなオレンジの軽が雨粒を弾いて走りだす。俺も彼くらいの年齢なら家に電話して、親に迎えに来てもらえたのに。
(……携帯の電池切れとるけど)
いつまでもうだうだしていられない。結局近くのドラッグストアで売り切れないうちに傘を購入した。

最寄り駅から自宅までは、歩いて約一五分のところにある。そこまで少し遠回りをしてもなるべく大通りを通ってどこかでタクシーを拾おうと考えていたのだが、これがまた一向につかまらない。たまに通ったと思えば既に先客を乗せているばかりで、途中で諦めて住宅街に入った。右手の袋を抱え直す。指に食い込んで重いし、肩が疲れた。こんなことならスーパーに寄らなければよかったし、遠回りなどせずとっとと家路を急いでいたらよかったと思った。肩にかけた鞄が今にもずれ落ちそうだ。

ついていない日というのは、不運が不運を呼んでくるように連鎖する。今日がまさにそうだった。
諸々の見積りや契約書も交わし、いよいよ工事に入ろうと考えていたクライアントから今更費用に関する見直しを頼まれたあげく、視察に入っていた別の案件が法律の改正により建築プランの大幅な変更を余儀なくされた。どちらも決定までかなり難航した案件であったのに、もう一度イチから納得してもらえるプランを新しく練って、予算内で見積もりを立て、各材料の手配をしなければならないなんて、考えるだけで気が遠くなりそうだった。そうでなくても最近は新しい取引先からの受注を任されて手一杯なのだ。手を組んで初めての案件で、成果を出さないわけにはいかない。そんな常に神経を使っているところに今日の出来事が重なって、一気に疲れが出てしまった。
(……疲れた)
右手に持つ荷物を見やる。店に入ると気が大きくなって色々買い込んでしまったが、そんな必要があっただろうか。だってきっと今日も家に帰ったら、飯も食わずに泥のように眠ってしまう。そして朝になったら重たい身体をベッドから無理矢理剥がして、急いでシャワーを浴びて駅へ向かう。いや、それで済むならマシかもしれない。これからしばらくは終電帰りで、家に帰ってもパソコンとにらめっこしなければならないだろう。そう思うと、すべてが馬鹿らしくなってきた。
今自分が歩いている住宅街がいい例で、世の中にはこんなにたくさんの家があるのだ。そのうちのひとつの家のガーデンルームがなくなったからって、世界に何の問題があるだろう。駐車場の屋根がないからって、門扉が最新のオートロックじゃないからって、それだけで死んでしまう人がいるだろうか。建築業界にいながら身も蓋もない考え方だが、もうなにもかもを放り投げて逃げ出したくなった。右手の食料品も左手の傘もすべて放り出して、今すぐ逃げ出してしまいたい。
そうして革靴が大きな水たまりを踏み込んだ時、傘のビニール部分が何かにぶつかった。雨粒が勢い良く散って顔をあげる。どうやら傘同士がぶつかったようだ。至近距離に黒いこうもり傘が見える。しかし住宅街といっても、大人二人が傘をさして横並びで歩いてもぶつからない程度の幅はある。訝しんでいると、持ち上がった傘の下から、見知った顔がのぞいた。
「おかえり」
そう微笑んだのはまぎれもなく、今頃家でのんびりテレビでも見ているはずの恋人だった。

「……なんで」
驚くというより、ふてくされたような声が出た。
「雨降ってきたっちゃろ?ばってん電話しても出らんし、メールも返ってこんし、迎えに来たばい」
千歳は空いた片手にもう一本傘を持っていた。
連絡がつかず、時間も通る道も何もわからない状況でよく迎えに行こうなどと考えたものだ。
「もし駅まで行って俺と会えんかったらどうするつもりやったん」
「そりゃあすぐ帰るばい」
「じゃと思った」
別に何時間でも待っているという青臭い言葉を期待していたわけではない。十年以上の付き合いで、そんな場所はとうのむかしに通りすぎたからだ。
「にしても前から雅治ば歩いてくるん見えてちょっと傘ぶつけてみたばってん、ガチで睨まれたけんたいぎゃこわかったとよ」
「そげなんお前が悪いんじゃ」
こちらの虫の居所が悪いというのは千歳の知ったことではないと思うが、こいつはそういう点において昔からタイミングが悪かった。
話しながらさりげなく右手の荷物を取ってくれる。これでずれ落ちそうになっていた肩の鞄をようやく直せてすっきりしたと思えば、千歳は頓狂なことを言い出す。
「んじゃ、雅治こっち入りなっせ」
「ハア?」
「だけん、こっちの傘ば来なっせ」
「意味わからん、俺傘あるんじゃけど」
「明日焼肉おごっちゃるけん」
ムッと眉間にしわが寄る。
「おまえ……俺んことなめとるじゃろ」
千歳の中の俺は、中学生から成長していないのではないか。
「いやあ、そういうとこは昔からずっと変わってなくてちょろかねえ〜」
傘をたたみ、一人分のスペースに身を滑らせた俺を見て千歳は笑った。

「最近、夜になっと一気に冷えるばいねえ」
「まあ、もうすぐ冬じゃからの。てかお前、今日雨降るなら俺が家出る前に声かけんしゃい」
恨み言を言えば、自分は無実だというように声を上げる。
「いや、俺もちょうど仕事から帰ってきた時に降りだしてびっくりしたばい!おかげでいっそいで洗濯物取り込んだけんね」
「俺のジーパン無事じゃろうな?」
「うん。ばってんシーツだけちょっと濡れよったけん、あとでドライヤーかけるばい」
ふたりで歩きながら、千歳はこちら側に傘を傾けすぎるので、俺はときたま傘を持つ千歳の手を奥側に追いやったりする。寒いと言いながらも千歳の体温は高く、触れれば離したくなくなるぬくもりがあった。その手首に触れたままでいると、千歳は「雅治の手は気持ちよかねえ」と言った。
「俺、冷え性じゃけど」
「ばってん、さらさらしてて気持ちよかよ。ずっとさわっててほしか」
頭ひとつ高いところにある顔は、喉を撫でられた猫のようにふぬけている。湿気のせいでいつもよりボリューミーな髪の毛をかきまぜてやろうかと思ったが、雨粒が跳ねても嫌なのでやめておく。使っているのはかなり大きめな傘だが、男ふたりで入っているので肩はもちろんズボンの裾は既にびしょ濡れだ。
「雅治、帰って何食いたい?」
千歳がつとめて明るい声で話しかけてくる。
「…あんま食欲ないけぇいらん」
「そう。んじゃあ、食いたくなったら何か作るばい。まずは風呂にすっかねえ」
新しくひのきの入浴剤を買ったことを嬉々として語っている。
いつもなら、一口でもいいからなにか口に入れろとうるさいのに。
「まあ、もし何かしてほしかこつあったら言いなっせ」
激しい雨音の中で、鉄下駄がアスファルトを擦る。
千歳の優しさは男らしく不器用で、非常にわかりやすかった。
最後の曲がり角を超えて、だんだん家が近づいてくる。手首に触れていた手を、傘を持つ指の上に乗せた。
「……んじゃ、足の指ふいて」
「…は?足の指?」
「ん。もう靴ん中水入って、ぐちゃぐちゃで気持ち悪いから、ふいて」
今は歩くたびに水音を立てるこの不快感を取り除きたかった。
家に帰ったら濡れた靴と靴下を脱いで、リビングまで運んでもらい、足をふいてもらう。一本一本の爪の先から、指の股までていねいに、時間をかけて。その間、話すことはなんだっていい。ただ千歳にそうしてもらえたら、なんだか明日も新しい靴を履いて外に出られる気がした。
「ええか?っちゅうても、お前のせいでこんなに濡れたんじゃけど」
三本中二本の傘は結局ただの荷物になっただけだった。単調な声色にも千歳は嬉しそうに瞳を細める。
「お安いご用ばい」
マンションの下に到着し、傘を閉じる。すると「なんなら特別にマッサージもおつけ致しますよ」なんて似合わない口調で手を取ってくるものだから、ついふてぶてしいポーズも忘れて笑ってしまった。

(20121021)