例えば家族、友達、ペット、産まれた時から住んでいる家などの環境もろもろ。小さい頃からそばにあったものは、これからもずっとそばにあるんだということを、彼らは信じて疑わなかった。今日はやけに鼻を突く潮風だってそうだ。
大きく息を吸い込む。3月に入り少しだけ柔らかくなったと言えど、未だ肌を刺す冷たい風に負けるもんかと言うように。
「見つけた」
堤防に腰掛ける黒羽の背中に声をかけたのは、一つ下の幼馴染の声だ。
「よおダビデ」
名前を呼ばれた天根は返事の代わりに堤防にのぼり、黒羽の横に腰掛ける。寒そうにマフラーに顔を埋める横顔が、なぜかいつもよりあどけなく見えた。
「お前、サエたちと一緒に行かなかったのかよ?」
今頃佐伯達テニス部の面々は、卒業式の打ち上げで地元の焼肉屋にいるはずだ。勿論その中には天根も含まれており、数時間前に校門で別れたはずだった。
「……バネさんが」
「ん?」
「バネさんが、いないから」
ぼそぼそと紡がれたあまりに子供じみた答えに黒羽は一瞬間抜けに口を開け、バリバリと頭をかいた。
「…っか〜!あんなぁダビデ、お前これからは、三年抜きでやってかなきゃなんねんだぞ!?新しく後輩も入ってくんだからいい加減先輩離れして、しっかり剣太郎を支えてやれよ!」
天根の実力はもはや先輩の自分を超えていて、戦力として申し分ない。しかし家でも末っ子で、自分たち三年生も幼馴染ということで一番年下の葵にするように甘やかしてきたのが悪かったせいか、如何せん年上への甘え癖が抜けないのが課題でもあった。
「困ってサエたちに泣きついても、皆高校で忙しくてかまってやれねえかもしれねえんだからよ」
な?といつものように頭を軽く叩こうとしたら、手首を掴まれてぎょっとする。
「……バネさんは?」
言葉の後に、二人の間に一呼吸の間が生まれる。後に続く言葉はわかっていた。
「……俺は」
解かれた手をゆっくりと地面に置いた。アスファルトは、体の芯まで届くような冷たさだった。
「俺が行くのは、お前の面倒見るには遠すぎる場所だよ」
「っ、だからなんで!バネさんだけこっちに残ったって、兄ちゃんと二人残って、おじさんとおばさんだけで行けばいいんじゃ」
天根のその言葉は、黒羽の心に静かに爪を立てた。
「まあなんつーか……家族だからよ」
父の転勤の知らせは、卒業の一ヶ月前に聞いた。理由は詳しく教えてもらえなかったが、夜に階下から両親の言い争う声が聞こえてきた。そこで、どうやら父親の仕事があまり上手くいってないらしいことを知った。
地元高校の入試も済ませていたし、駄々をこねれば自分だけ千葉に残らせてもらうこともできたかもしれない。それでも両親が全く知り合いのいない未開の地で頑張ろうとしている中、自分だけ負担をかけて今までと同じ暮らしを続けることはできなかった。
「お前だって、わかるだろ?」
引越しを告げれば、クラスメイトも、テニス部のチームメイトも悲しんでくれて、中には涙を流してくれる者もいた。天根だって本心で家族をないがしろにするようなことを言った訳じゃない。一時の感情で昂ぶっているだけだ。今の黒羽の心の中には、爪を立ててきた獣を抱いて頭を撫でるような、穏やかな気持ちがあった。
左右の堤防は見渡す限り誰もいなくて、中学生にしては育ちすぎた体格の二人が独占したって広すぎる空間だ。ふたりぼっちとは多分、こういうことなのだろう。
そして海の前では自分たちはどこまでもちっぽけな存在なのだということ。これまで幾度も思い知らされ、救われた事実に黒羽は少し笑った。
「ばあか、なんて顔してんだよ」
人差し指で、しわのよった天根の眉間をつつく。
「おもしれー話してやるよ。俺が引っ越す場所な、ここよりすっげー田舎で、そんで家の裏に山があんだぜ!笑っちまうよなあ、十五年間海っ子としてやってきたのに、山に住むんだぜ。なあ、次会った時、俺がすっかり山の魅力に取りつかれて、すんげー山派になってたら、お前どうする?」
天根は何も答えなかった。眉が下がったり、しかめられたり、目をぎゅっとつむったり。黒羽は今度こそ、整髪料でしっかりと固められた、太陽の色をした髪の毛を撫でた。ここでやることなすことすべてが、中学最後だった。
「……さて、帰るか。今日は家族で飯食いに行くんだ」
「荷造りは?」
「あ?ああ、あれ、嘘。ほんとはな、三日前に母さんに急かされて、全部終わってんだ」
卒業式が終わったあとの佐伯たちの約束を、荷造りを理由に断った。手伝いに行くという申し出も、部屋が汚いからと拒んで。
ほんとうは、会いたくなかった。今まで一緒にいた時間が長い奴ほど、なんとなくのうちに別れてしまいたかった。そうすれば笑顔であちらに行けると思ったから。
「……嘘つきだ」
天根は子供のような口調で口を尖らせた。
「おーおー、なんとでも言え。あとであいつらから苦情のメールきても関係ねえしな!」
むしろそうなったほうが面白い。引越し当日、新居へ向かいながら車の中でチームメイトからのメールをチェックしている様子を思うとなんだか笑えた。
ジャンプして堤防を降りて、天根に手を差し出す。
「ほら」
昔、天根がまだうんとちっちゃかった頃。黒羽がここにいるとひとりじゃ降りられないのに登りたがって、いつもしょうがねえなって引っ張りあげて、降りる時は手を貸していた。いつのまにかぐんぐんと背が伸びて助けはいらなくなったけど、今日ぐらいは思い出をなぞっても許されるだろう。
「別に、一生のさよならじゃねえんだから」
別に一生のさよならじゃなくても、さよならはさよならなんだから。
握った天根の手のひらは、知らないうちに自分よりも大きく、分厚くなっていた。
堤防沿いの道を歩き出す。数歩歩いた所で、バネさんと呼ばれた。
「ん?」
「……俺が教えるよ」
「え?」
「だから、バネさんがもしここでのこと忘れて、すっげー山のこと好きになっても、俺が、俺が教えるから。おれが」
天根の顔の右半分だけが、夕日に照らされている。彫刻のような瞼の下におさまった大きな瞳が、オレンジ色の光の糸に照らされて、キラキラと揺れるように輝いた。
まるで海のようだ。黒羽は、時に凪ぎ、時に暗く沈み、時に光を乱反射してきらきらと輝く海が、大好きだった。
「バネさんといた海、俺が、覚えてるから」
揺れていた天根の瞳から、ぽろりとひと粒の涙が落ちた。
黒羽は咄嗟に、片手で自身の目を覆った。肩が上下して、息が荒くなる。くちびるをぐっと噛み締めた。
「だから、会いたくなかったんだ」
手が濡れる。雫が口に入って、塩の味がする。慣れている海水の味よりも少しだけ甘くて、口に馴染んで、喉にひっかかる。この甘味はきっと、自分たちがここで過ごした時間だった。思い出だった。笑顔だった。ふたりの、海だった。
「……バネさんに、また会わねばね」
しゃくりあげる声で必死に紡がれたダジャレに返せたのは、力のない拳での、腹へのパンチだった。
(20130308)