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この作品は2月26日の破天荒王子にて無料配布した美大生千歳×一反木綿仁王くんの パラレルです。
仁王くんが妖怪ですので、苦手な方はご注意ください。




人間の世界に来るのは久しぶりだ。仁王は逸る気持ちを抑えきれず、宙に浮かぶ身体をその場でくるりと回転させた。
あちらとこちらの世界を繋ぐトンネルがある森の洞窟を抜け、開けた視界には青い大空が広がっていた。更に進めば眼下には大きな街が見えてくる。パタパタと体をなびかせ、今の人間界がどのようになっているのか様子見がてら飛んでまわる。そこでは空を舞う鳥の数も、建物も、人の服装も、髪型も、自分が最後に訪れた頃とはあらゆるものが変化していた。何だか見たことのない機械を持っている者も多い。たがだか数十年でここまで変わるものなのか。
文明の進化に感心するよりもまるで違う星に来てしまったかのような錯覚に陥るのは、もう数百年は身長も見た目も変わっていない仁王には仕方のないことだ。けれど、当時と変わっていないものもある。ぐん、と大きく背を伸ばしさらに高いところから見下ろせば、思い出の山はあの頃と変わらず青々と茂っていた。
ひとつ笑みをこぼして、目的の人物に会いに行くべく建物の屋根すれすれまで高度を落とした。
仁王は妖怪だ。世間一般の通称で言うなら、いわゆる一反木綿に分類される。ひらひらと自由に空を泳ぎ、その姿が普通の人間に見えることはない。 目標の人物に会いに行く道中、人間観察に励む。最初こそ急激な変化に圧倒されていたものの、持ち前の神経の図太さはすぐに戻ってきた。
家屋に挟まれた道を散歩していると、その向こうに二人の女性が見える。年は四十と言ったところか、それぞれ何やら膨らんだ袋を腕からぶらさげている。気になって女性たちを取り囲むように浮かんで様子を見るが、もちろん彼女たちが気付くそぶりはない。ダンナがどうだとか、今夜のコンダテがどうだとか、会話の中身はよくわからないが楽しそうに談笑しているところを見るとむくむくと悪戯心がわいてきた。
「あ、あら…?奥さんそれ…」
「えっ?ちょ、ちょっと何よこれ!?」
(お、重いぜよ…!)
袋の中身が知りたかっただけなのだが、中をのぞき見するのが焦れったく、いっそ袋ごともらってしまおうと持ち手を引っ張る。女性たちからすると荷物がひとりでに自らの手から離れようとしているようにしか見えない為、とまどいながら引き戻し仁王と引っ張り合うかたちになった。
(つ、強いぜよ〜……!)
そういえば、これから会いに行く目的の人物にも人間の女性は恐ろしいから気を付けろと言われたことがある。もしかしたらとって喰われるかもしれない。
(ええい、しかたない)
背に腹は代えられない。仁王はパッと手を離し、袋の中へ直接手を突っ込んだ。楽しそうに話していたのでてっきりお手玉やおはじきなど遊び道具が入っているのかと思ったが、山菜や肉の細切れのようなものしか入っていない。なんだと拍子抜けして荷物を捨てたが、その頃には購入した食材がポルターガイストのごとくぽんぽんと宙を舞い始めるのを見た女性たちは一目散に走り去ってしまっていた。
仁王はそれからも、歩みを進めながら興味を惹かれたものにはちょっかいをかけてまわった。見慣れないものへの純粋な好奇心もあったが、なにより彼は人の驚いた顔を見るのが大好きだったのだ。
そうして悪戯をしてまわる彼が心臓を跳ねさせたのは、子供が漕ぐ三輪車の前籠を押し返すという力比べをしていた時だ。子供は漕いでも漕いでも前進しないという奇妙な現象に最初こそ笑っていたが、一向に家に帰れないという状況に気付くと顔を歪めわんわんと泣き出す。仁王は三輪車の動きが止まったのを見て、満足して手を離した。
(俺の勝ちじゃ〜)
泣き続ける子供をそのままに宙へ浮かび、上機嫌で進行方向へ舵を取る。しかし数メートル進んだところで、急に体が進まなくなった。まるで先程の子供のようだ。
どういうことかと必死に体をなびかせていると、後方から人の声が聞こえた。
「コラッ!おまえ、さっきから悪戯ばっかしとっとや!!」
怒鳴り声にビクッと全身が跳ねる。体をねじり視線を向けると、若い男が自分の足部分を掴んで仁王立ちしていた。それもかなりの大男だ。
「なっ、なんじゃおまえ!離しんしゃい!!」
「ダメばい!」
どうにか逃げようと体を激しく波立たせるが、男が怯む様子はない。人外のこの姿が見えるのだから、当然といえば当然だ。仁王は迂闊な自分に内心舌打ちをする。
まさかあいつ以外に自分たちを『視える』存在がいると思わなかった。例え捕らえられても見世物になる心配はないが、もし燃やされでもしたら他の種類の妖怪ならまだしも自分の場合は一発でオダブツだ。最悪の結果を想定して背筋が震える。
こちらに来たばかりでまだ不安はあるが、こうなったら仕方ない。ハラをくくって瞳を閉じる。
服装はさっき見た若い男を元に、二本の手足、その下の筋肉のつくりと、徐々に細部へと意識を巡らせイメージを練る。それが脳裏にはっきり像として浮かんだ瞬間瞳を開けた。
「っうわっ!?」
片方の足の裏に、地面の固い感覚がある。成功だ。履き物まではイメージできなかった為裸足だが大した問題ではない。人型をとったため周りの人間からも視覚できるようになったというデメリットもあるが、この道を走り抜け男を振り切れさえすればいいのだ。
全速力で駆け抜けようと、勢い良く足を踏み出した。

「……不本意じゃ」
「ほれ、じっとしとかんね」
ぼやいた言葉は男の耳にも届いていたらしい。男は大きな体に似合わない繊細な手つきで、仁王の擦り剥いた膝を消毒する。
先程踏み出した足は体重のかけ方を間違いバランスを崩した結果、勢い良く転倒し地面とキスすることになったのだった。
「いってえ〜…」
「あんなことしとるけん、自業自得ばい」
男は治療終了だと言うようにガーゼの上から傷口をぽんと叩く。
「いっ…!なにすんじゃ!」
「何って……それはこっちのセリフばい。そもそもあんた何者とね?」
年季の入った木の救急箱を片付けながら男は問うた。初見では体格のせいかいかめしい印象を抱いたが、改めて見るとなかなか人のよさそうな顔つきをしている。
「じゃから、妖怪じゃって言ってるじゃろうが」
何度言っても信じようとしない男を前に、論より証拠だと人型の擬態を解いて元の姿に戻る。
仁王の体長は男の身長の三分の二ほどで、半月型をした目が斜めに釣り上がり、その二十センチほど下からは腕と思われる二本の細い布が生えている。ふよふよと宙を漂う白い長方形の布の、膝と思しきあたりには確かにガーゼが貼られていてなんともシュールだ。男は困ったような顔で頬を掻いた。
「うーん……確かにあんたが不思議系な生き物だっちこつはわかったし、興味も惹かれるばってん、今はかまけてる暇なかねぇ…」
そもそもどうやって宙に浮いているのか、この数ミリ足らずの薄い体のどこから発声しているのか。自身の性格上、本来ならもっと突っ込んで謎を解明したいところだが今は直近のコンクールが迫っている。灸を据える意味で「もう悪戯はしないように」とだけ告げると、襖を開けて隣の部屋へ向かった。
そして仁王はといえば、あまりの呆気なさに少し拍子抜けしていた。最初こそ未確認生命体として捕らわれ、ねちねちと実験と称した拷問を受けるのかもしれないと思っていたが、あの男にそこまでの科学的知識があるようには見えない。何より面倒事を嫌いながら、自由にされるとさらなる興味を求めてあらゆる事に首をつっこみたがるところが、仁王の長所かつ短所であった。
男が消えた部屋の襖へにょきっと頭を突っ込む。部屋の中央の丸椅子に腰掛けた男は、なにやら熱心な顔で四角い板のようなものと向かい合っていた。
「何しとるんじゃ?」
「うわっ!」
作業の傍ら聞こえた声と、まるで襖から生えるような仁王の姿に男は驚いて声をあげる。
「なんじゃ、それ?」
体をそのまま部屋の中に滑りこませ、男と並ぶかたちで板を見やる。厚めの板にはなにやら布が張られていて、その上には先程自分がこちらの世界に来た時に見たような、蒼い森が描かれていた。
「ほーう、お前は絵を描くんか」
見事に木々の膨らみを感じさせる色使いに目を見張り、しげしげと眺める。
「え?あんた、これが何かわかっと?」
「おう、昔会った奴も絵が趣味でな。色々教えてもろたんじゃ」
男の右手にあるものが筆、左手に持っているのが絵の具。ひらひらと体をなびかせて言えば、男は予期せぬ親近感を覚えたようで少し頬をほころばせた。
「へえ、ほんなこつよう知っとるね」
「ふふん、伊達にお前の何百倍生きとらんぜよ。……にしてもおかしな部屋じゃな。お前、家族はおらんのか?」
身を翻して狭い部屋を漂う。六畳ほどの狭い空間を、いたるところに立てかけられたキャンバスが埋めていた。山や川など場所は様々だが、見る限り風景画がほとんどだ。
「いや、実家は近くにあるばってん、俺が絵に専念したかち言うてここをアトリエにして、ひとり暮らししとっとよ」
「ほほう、将来を期待されとるんか」
人間の命は短い。故に限られた時間を自己実現の為に活用しようとひたむきになるのは、老いもなく気ままに過ごしている自分たちと大きく違うところだ。
「ん〜……どげんかね。それより、お前さんほんなこつ不思議な体のつくりしとっとねえ。さっきのやつといい、一体どうなっとると?」
「さっきの、て何じゃ」
奇異な存在を前にしても、ひとつ話題を共有できれば警戒は徐々に解かれるものだ。男は抱えていた疑問を仁王に問うた。
「子供に悪戯しとった時は三輪車に触れとったやろ?ばってん、襖は幽霊んごた通り抜けしよる……今まであんたんごつ存在見えたこつもなかったし、霊感はなかち思っとったんばってん…」
男は顎に手を当て頭を捻る。
「俺は幽霊じゃないぜよ、妖怪じゃ」
「妖怪?」
「おん。俺らは幽霊のやつと違って、誰かを呪ったりはしんぜよ」
干渉しようと思えばさっきみたいに悪戯はできるけどな、と付け足す。
「こっちの世界も複雑でな。お前は多分元々素養があったんじゃろうが、俺の知る限りここ数十年はこっちに来てた妖怪はおらんはずじゃき。見たことないんも当然じゃ」
「素養ち、何のね…」
年若い男は苦笑する。いまいち話を理解していなさそうだったが構わない。仁王としては危害を加えるつもりはないことだけわかってもらえれば充分だ。
「んで次、物に触ったりすり抜けたりっちゅうんじゃがな。俺らは『触れたい物にだけ』触れることができるんじゃ」
「触れたい物にだけ?」
男はすでに筆を置き、仁王の話に聞き入っていた。
「そうじゃ。つまりこんなふうに」
言葉で説明するより見たほうが早いと、男の体を貫通するように背後から頭を突っ込む。自らの腹部から生える仁王の顔を見た男は目を丸くした。
「今は俺が何も考えとらんから、お前には痛みも俺が触れてる感覚もないと思うが、俺が『触れたい』と思えば……」
「わ、わかったばい!!よおくわかったけん、戻ってくれんね!!」
情けない声に仁王はけらけらと笑って、男の体をくぐり抜ける。
「お前面白いやつじゃのう、気に入ったぜよ。俺も用事があるけん長居はできんが、何か願い事ひとつ言ってみんしゃい」
「ね、願い事……?」
唐突な申し出に男はきょとんと首をかしげた。
「お前には借りがあるけんの。幸いなことに、俺はそこらの妖怪より能力に幅があるんじゃ。流石に世界征服とかは無理じゃが、大抵の願い事なら叶えてやれると思うぜよ」
「大抵の……」
男は考えこむように少し眉をひそめた。てっきり断られると思ったが、無欲そうなこの男が何を望むのか興味深いところだ。
しばしの沈黙の後、男はゆっくりと口を開く。
「……じゃあ、次のコンクールで…」
仁王にとって聞きなれない、カタカナの単語だ。しかしその次の言葉が紡がれる前に男は勢い良く立ち上がり、クセのある髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜる。
「あー、何ば言いよっとね俺は!!すまん、願い事なんちなかけん、今のは忘れてくれんね!」
忘れようにも全く話が見えない。男は甘い言葉に縋りかけた自分を叱責するように再度椅子に腰を落とす。じっと視線を逸らさない仁王を見て、どこか力なく笑った。
「……さっき、近くに実家があるち言ったやろ?俺んち、オヤジが陶芸家でな……あ、皿とか作ってる人のことな。んで、ほんとは絵なんちやめろっち、散々反対されとっとよ。大した才能があるわけでもなかこつは、自分でもわかっとる。だけん次のコンクールで賞獲れんかったら、筆置いて陶芸の修行始めることになっとって……ばってん、イカサマはいかんばいね」
男は自嘲するように笑い「すまん」と頬を掻いた。仁王には、男の謝罪の意味がわからなかった。
「……別に、お前がええならええけど。よくわからんしがらみは、どこにでもあるもんなんじゃな」
人間の世界では、生涯を通じて誰かに強制された道を歩かされることがある。自分たちの世界では考えられない感覚だった。首をかしげた仁王に、今度は男がからかうように笑う。
「確かにそうばいねぇ。あんたも苦労しとっと?俺らんとこは相手のことを考えてる故だけん無下にもできんし、中々めんどくさかね」
男は少し待っていろと言い残し部屋を出る。仁王は部屋を漂いながら、男が帰って来るまで部屋にあるキャンバスをひとつひとつじっくりと眺めた。 そこには光の粒子が力強く輝く海もあれば、生命の躍動を感じさせる豊かな花畑もあった。どれも仁王が目にしたことのないものばかりだ。
(俺は、綺麗じゃと思うんじゃけど)
それだけではダメなのだろうか。この部屋にあるどのキャンバスも、彼を周囲に認めさせるには至らなかったのだろうか。そんなことを考えながら、ひたむきにキャンバスと向き合う彼の横顔を思い出していた。
作品をひとしきりぐるりと一周すると、箪笥の上に何かが置かれているのが目に入った。
(何じゃこれ?)
壁に立てかけられたそれには布がかけられている。手を伸ばし布を取り払った瞬間、後ろの襖が開く。盆には二人分の皿と湯のみが乗っていた。
「ちょうどもらいもんの芋羊羹があったけん…あ、ていうかあんた物食えると?」
「なあそれより、これって……」
「ん?ああ、それな!」
男は盆を床に置き、箪笥の上のキャンバスを手に取った。
「たいぎゃ綺麗っちゃろ?俺のじいちゃんが描いたもんばい。俺は会ったこつなかばってん、ガキん頃にこん絵見せられてな。俺が絵ば描き始めたんもこれがきっかけばい。……いつか俺もこん絵みたいな作品が描きたかっち、ばあちゃんに言って譲ってもろたとよ」
ベニヤ板のキャンバスは劣化し、縁はめくれて浮き上がっている。しかしキャンバスの中では、地脈を感じさせる力強い幹に、みずみずしい花弁が今にも飛び出してきそうな満開の桜が咲き誇っていた。樹の根元には白い雪が積もっている。
「不思議っちゃろ?これ。ばあちゃん曰く、こん桜はほんなこつ、雪の降る日にいきなり咲いたらしか……このへんじゃ雪が降るのも珍しかこつだけん、皆たいぎゃ驚いたち言うとった」
男はさぞ綺麗だっただろう、と当時の光景を想い瞳を細める。大切そうにキャンバスをなぞる指には、乾いた絵の具がついていた。
(そうか、お前が……)
男がどうして自分の姿を見ることが出来たのか、確信がすとんと仁王の胸に落ちた。
「あんたに会ったのも、ちょうど爺ちゃんの墓参り行ってきた帰りでな…って、どこ行くと?」
「…今から、そこに行ってくる」
「はっ!?ちょ、あそこは今…!」
制止する男の声も聞かず、仁王は部屋を飛び出した。窓からぐんぐんと高度を上げ、目的の場所まで風を切る。
すっかり変わってしまった街から目を逸らすように、一直線にあの山を目指した。

男が仁王に追いついたのは、彼が全てを知ってしまった後だった。
「はあっ、はっ……!み、見つけたばい」
必死に山道を登り件の場所に着くと、仁王はひらひらとひとり佇んでいた。
「あ、あんた」
「……ここも、変わってしもたんじゃな」
ひとり言のようにぽつりと言った。仁王の前には、大きな切り株だけが時代に置き去りにされたように残されている。男はその背中を見て、少し躊躇って口を開いた。
「……こん桜、一年前くらいに切り倒されたとよ。住民は皆反対しとるばってん、最近は他の市からの転居者が多くてな。ここ一帯の山切り崩して、新しくマンションば建てるらしか」
「……そうか」
あいつも死んでしもたらしいしな、と呟いた言葉に男は反応を示す。
「そうばい!あんた、なしてじいちゃんのこつ……」
仁王は振り向き男を見やると、薄い胸に手を当てた。
「あの桜はな、俺なんじゃ」
「……は…?」
間の抜けた男の声に、仁王は一反木綿から人型に姿を変え切り株へ腰掛ける。その肌は本体の色に相応しく色白で、銀色の髪が陽に透けてきらめいた。
「俺は他の妖怪と違って能力に幅がある、って言ったじゃろ?それがこれじゃ。まぁ人型はそれなりの年月を積んだ妖怪なら誰でもとれるが、俺は人型だけじゃなか。あらゆるものに擬態できる」
先ほど同様、頭にクエスチョンマークを浮かべている男にわかるよう初めから説明してやる。
「俺がやつと出会ったのは、四十年ほど前じゃったかのう」
仁王の住む村の規則上、人間界への勝手な行き来は本来禁止されており、最初は人間の世界がどのようなものか、観光気分で訪れただけだった。見慣れない衣服、見慣れない建物、全てが新鮮で面白かった。
「んで味をしめた俺は、姿見えんのをいいことに悪戯に励んどったというわけじゃ。村のやつらにバレんようこっそり抜け出すのも、こっちのやつらを驚かすのも、そりゃあ楽しかったぜよ」
ある日見知らぬ男に首根っこを掴まれ『何ばしよっと!!』と怒鳴られるまでは。
「そいつがまた面白いやつでな。俺をこらしめるわけでもなく、掴まれて連れていかれた先がこの桜の木の下じゃった。酒瓶持って『家じゃ婆さんに止められて呑めんから一杯付き合え』言うて」
むせかえるほどの薄紅の花弁が舞う、春のことだった。
「それから俺は、やつに会いにちょくちょくこっちに足を運んだよ。特に春は毎年のようにここに来て盃を交わしたもんじゃ。俺は人型をとっても飲み食いはできんからええって言っても『友達のしるしばい』ってでかい口開けて笑ってな。途中からは、専用の猪口なんかもくれたんよ」
これくらいの、と、左手の親指と人指し指で小さな輪を作って大きさを示して見せる。懐かしさに目を細めた。
「あいつの指も、いつも乾いた絵の具で汚れとったよ」
最後に会ったのは、約二十年前の冬のことだ。
「特別寒い日でな、雪がしんしんと降っとった。その下で、いつも快活に笑っとったやつが、珍しくしみったれた顔しとったよ。『次の桜はもう見れんかもしれん』って」
仁王は笑って「冗談はやめろ」とからかった。男はわずかに微笑むだけで何も言わなかった。その時初めて、仁王は死なるものの存在を実感した。
妖怪と人間では、時間の流れが違う。会う度に顔に新しい皺が刻まれているのも、背中が曲がっていくのも、髪が白くなるのも仕方ない。しかしいくら姿形が衰えようと、仁王にとって彼は、変わらぬ彼のままであった。そしてそれはこれからもずっと変わらないのだと思っていた。
桜なら、男と共に何度も見た。けれど、それと同じではいけなかった。今までのどれよりも綺麗に、鮮やかに、鮮烈に。生命を呼び起こすようなみずみずしさを。
そして、彼は大木を彩った。
「花に擬態したのなんか初めてじゃったけど、声を上げて喜んでくれたぜよ」
男は咲き誇る桜を見上げ『綺麗だ』と幾度と無く口にした。年を重ねて濃くなった皺を、さらにしわくちゃにして男は笑う。雪かはたまた涙のせいか、目尻の深い皺に溜まった水がきらりと光った。

「あんたとじいちゃんが、そげんこつ……」
側で立ち尽くしていた男が口を開く。
自分の祖父の遺品にそんないきさつがあったなんて、全く知らなかった。
「ま、これがきっかけで俺はこっそり村抜け出しとったんがバレて、桜姿もかなりの人間に見られてしまったきに今まで外出禁止令を出されとった、っちゅうわけじゃ」
「……あの桜は、じいちゃんば元気づけてくれとったんやね」
「そんだけじゃなかよ」
「え?」
仁王は穏やかなトーンで告げる。
「あいつは……千歳はな、お前に会えるのを、本当に楽しみにしとったよ」
「俺……?」
「ああ」
瞳を閉じれば、まるで昨日のことのように蘇る。雪の降る寂しい樹の下で、男はこうも言った。
戦争でたくさん大切な人を殺され、自分も同じだけの人を手にかけた。ろくでもない人生だったが、初めて生きていてよかったと思わせてくれた光が、娘の腹の中に宿っている。
「そいつにせめて何か一つ、形に残るものを残してやりたいとあいつは言っとった」
男は仁王と目が合うと、じわりと瞳を滲ませた。それを隠すそぶりもない。ただぐっと、何かをこらえるように唇を噛み締める。うつむくと足元に雫がひとつ落ちた。それを見て仁王は微笑む。
きっとこれでいい。ここでは悠久の時を生きる自分には別離しか待っていない。望むには儚すぎるものばかりだけれど、時を超えてなお、色褪せない気持ちがある。
自らは永遠に知り得ないそれを伝えるのは、自分の義務だと思った。
「……さて。俺ももう行くかの」
大きく伸びをすると、手の甲で濡れた瞳を拭った男が呼び止めた。
「行くってどこ行くと?あんた、じいちゃんに会いに来たとやろ?」
「あー…そりゃ、まあなあ……」
絶対に病気を治すからまた会おう、という約束のままにこちらへやってきたのだ。男がすでに亡くなってしまったとわかった今、こちらへ来た用事もなくなってしまった。
仁王は今一度切り株に腰掛けたまま、人体の感覚を確かめるように掌を開閉する。
「……せっかく上手に人型がとれるようになったんじゃけどなぁ」
樹の下で教えてもらったのは、なにも絵のことだけではない。将棋だっていっぱい練習して、もうあっちじゃ敵なしだ。会えない間再戦を楽しみに、記憶を頼りに駒と盤を作り、ルールを仲間に教えて練習に付き合ってもらったから。
(勝ち逃げたぁ、あいつらしいぜよ)
何気なく空を見上げた。このまま帰れば次こちらに出てこれるのがいつになるかわからない。せっかくだから、好きに世界を旅してみるのもいいかもしれない。柔らかい風が仁王の長い襟足を揺らす。男が唐突に言った。
「なあ、さっきの言葉まだ生きとっと?」
「は?」
男を見返して問うと、彼は少しだけ赤い目で微笑んだ。
「願い事、一個聞いてくれるち言うたとや?今決めたばい。特にやるこつもなかなら、しばらく俺と一緒に遊ばんね?俺が描く絵ば、あんたに見とって欲しかよ」
その言葉にきょとんと瞬きをした仁王を見て男は続ける。
「俺こう見えて結構将棋も強かけん、相手になるばい?」
陽だまりのような笑顔に、重なる面影がある。
(……なんじゃ。ほんまに、勝ち逃げやのう)
無理に絵なんか描かずとも、全て、ここに残せているではないか。
空から自分たちを見つめ、屈託なく笑う彼の声が聞こえた気がした。
「…あんたやなか。俺は、仁王雅治じゃ」
「仁王……いい名前ばいね。もう知っとるかもしれんばってん、俺は千歳。千歳千里ばい」
よろしく、と大きな手が差し出される。いつかのように花冷えの風が吹いた。
あと百年もしない内、自らの瞬きにすぎない時間の内にこの子供の手も冷たくなってしまう。しかし終わりの始まりを告げるそれは、手を伸ばさずにはいられない温度だった。

(20120402)

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