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 ようやく降りてきたマンションのエレベーターへ乗り込み、自宅がある階のボタンを押す。八階建てのマンションの七階だ。
(思ったより遅くなってしもたの)
腕時計の針はすでに、日付が変わるギリギリのあたりを指している。
「ただいまー…」
鍵を使わずとも開くドアを開けて玄関へ入ると、リビングでテレビを見ていたらしい千歳がすっ飛んできた。
「おかえり雅治!だ、大丈夫やったと?何か変なこつとかされんかった!?」
「変なことってなんじゃ…別に、何もされとらんよ」ひとりわたわたと慌てている千歳に鞄を預けリビングへと向かう。ソファに座ると千歳は俺の荷物をテーブルに置き、自身も足元のラグへ腰を下ろした。
「だって言ってた帰りより遅かったけん、心配したとよ…やっぱり俺もついてけばよかったばい」
「アホ言え。お前みたいなでっかいのんが一緒に来たら余計警戒されるわ」
そうでなくとも千歳は店の者に面が割れているのだから。うりうりと額を小突いてやると、その指を掴まれて捨てられた犬のような顔を向けられる。付き合いだして初めて知ったが、この大型犬は意外と寂しがりだ。
「で、どうやったと…?」
「安心しんしゃい。ちゃんと辞めてこれたきに」
言えば千歳はぱあっと顔を明るくして、腹のあたりへ飛びついてくる。
「ぐえっ!おっま、手加減しんしゃい!」
「よかったばい〜!!これでようやく、俺だけの雅治んなったとー!」
頭をボカッと叩かれてもなんのその、もはや何を言っても右から左だ。あまりにおめでたい様子にひとつため息をつきつつ、叩いた手でそのまま腹に埋まったモジャモジャを撫でておいた。

互いの生活拠点であった大阪でも神奈川でもない東京でたまたまぶつかり、中学以来の再会を果たした俺と千歳。ホストクラブでバイトしていた俺に千歳は妙に興味を示し、店の常連になったり、かと思えば急に来なくなったり、俺が性癖を暴露したりと紆余曲折あって、とりあえず俺たちはお付き合い(もちろんそういう意味での、だ)を始めることとなったのだった。
そして俺がホストクラブで働いていた理由は金はもとより自身の性癖を克服する為で、一応ではあるが恋人ができた今となってはいつまでもホストとして働くのは具合が悪い。何か危険に巻き込まれる前にという千歳のすすめもあって、店に辞意を伝えに行っていたのだ。
(それにしても、ゲロ吐いてちんこおっ勃たせてるホモなんかとよう付き合う気になるな)
俺は真性だが、千歳はれっきとした異性愛者だ。しかしホストクラブに足しげく通いつめけして安くはない金を落とし、嘔吐後の介抱までして、世の中には本当に物好きがいるものだと感心するしかない。しかもそれが間違いなく女に不自由などしたことないやつなのだから尚更で、俺が言えることではないがつくづくおかしな世の中だ。
「雅治?どげんしたと?」
「いや、すごいノンケもおるもんじゃなあって」
せっかくの精悍な顔もだいなしに、きょとんとこちらを見つめる千歳の鼻をつまむ。千歳は「んむー!」とよくわからない声を出しながら頭にクエスチョンマークを浮かべていた。
「それより腹減った。なんか食いもんないの?」
体もそうだが、神経を使うと腹が減る。家へ帰ってきた安心感が空腹に拍車をかけていた。
「あ、さっき惣菜買ってきたばい!今あっためっと。味噌汁も飲むっちゃろ?」
「おん、頼む」
浮かれすぎて今にもにょきにょきと羽が生えてしまいそうな大きな背中は、鼻歌を歌いながらキッチンへ向かった。

「千歳、俺引っ越すけん」
いかにも一個五十円のおかずバイキングで買ってきました、というサイズの鯵のフライを口に含んで言った。うん、レンチンは衣がしなびてしまうので、やはりトースターで焼いたほうが美味い。
「は…?」
「じゃから、ここ出ていくんじゃ」
むぐむぐと口を動かす。目の前の顔からは、先程の楽しそうな様子が嘘のように表情が消えていた。
「ど……どぎゃんこつ!?!か、神奈川ば帰っと!?俺も行くばい!!」
数秒の沈黙の後我に返ったらしく、椅子を倒して立ち上がった千歳にガクガクと肩を揺すられる。あまりの勢いに首がとれそうだ。
「お、落ち着きんしゃい!!誰もそんなこと言っとらんじゃろうが!」
力強い腕を掴みどうにかなだめるが、揺さぶりが終わる頃には乗り物酔いと同じ感覚で、胸のあたりがやけに気持ち悪くなっていた。胃に揚げ物を入れた直後ということもあり、気を抜けばうっぷとまた目の前でリバースしてしまいそうだ。そしていつもその原因となる人物はこちらの気も知らず「どういうこつ…?」と真顔で説明を求めている。
「あのなぁ…一応仕送りはしてもらっとるが、俺は自分の稼ぎも家賃や生活費に当てとったんじゃ。収入がなくなったら、いつまでもこんなところ住み続けられんじゃろう」
それなりの立地で、リビング以外にも部屋が二つある。一学生が住むには贅沢すぎるマンションだ。そこそこの蓄えはあるが支払いが滞る前に早く付近で手頃な物件を見つけて引っ越したいと思うのは当然だろう。事の顛末を説明すると、千歳は大げさなほどに安堵のため息をつき胸を撫で下ろした。
「な、なんねー…そういうこつ。びっくりして損したばい…」
「お前が勝手に勘違いしたんじゃろうが!」
それに神奈川までついてきて、学校やら何やら一体どうするつもりだったのだ。おかげでもう飯を食う気がそがれたと箸を置くと、謝罪の気持ちなのかなんなのかへらりと笑って冷蔵庫から果物のパックを取り出してくる。
「すまんすまん。ばってんそれなら、俺にいい考えがあっとよ!」
パックと一緒にフォークを渡すその目はやけにきらきらと輝いている。
「…なんじゃ。嫌な予感しかせんけど、一応言ってみんしゃい」
受けとった五角形のプラスチックの蓋を開ける。
「ちょうど二ヶ月後、俺んアパートの更新月なんばい!だけんそれまで雅治ここおって、俺がこっちに越してきたら家賃も折半、引っ越さんでもよかよ!」
ここ気に入っちょるとや?という千歳の言葉は確かに的を射ており、利便性や間取りを考えれば出来ることなら変わらず住み続けたいというのが本音だ。しかし
「…それ、同棲ってことじゃろ?」
「うん、だけん周りにはルームシェアしちょるっち言っとけばよかね!」
これで問題解決、更にはもっと一緒にいられるようになって一石二鳥だと言わんばかりに千歳は笑う。けれどその提案に即座にうなずけるかと言われれば俺はNOだった。だって二ヶ月後も千歳と一緒にいる保証なんてどこにもない。千歳が俺に愛想を尽かすかもしれないし、俺が千歳に嫌気がさしているかもしれない。
何だかんだ言っても俺たちは、まだ互いのことを全然知らないのだ。
「…そげなん、いきなり言われても困る」
自分で思っていたより弱々しい声が出た。
「こんなん隠してもしゃあないから言うけん、ぶっちゃけ、いつまでこうしていられるかもわからんじゃろ。明日には俺かお前か、どっちかの気持ちは離れとるかもしれんのに」
同棲なんて、いきなり言われても困る。それまでの明るい雰囲気が一転、水を打ったように静まり返る。けれど間違ったことを言ったつもりはない。千歳を全く信じていないわけではないが、このまま千歳の言葉を鵜呑みにしたあげく裏切られ、さらには住まいまでなくしてしまうなんてことになったら目も当てられない。
容器に入った色とりどりのカットフルーツを見つめる。イチゴ、スイカ、バナナ、メロン。これを俺に食べさせようとスーパーで選んでいる千歳の姿が浮かんだ。
失うものがあるとしたら、ひとつで充分だ。
「悲しか顔ばせんでよかよ」
体すべてをふわりと包み込むような、優しい声だった。
「うん、雅治がそう思うのも当たり前ばい。俺たちまだ、互いの知らんところばっかだけんね。ばってん、やけんこそ俺はもっと雅治んこつ知りたかち思ってずっとあん店ば通っとったと」
千歳は瞳を閉じて、まだ少ない思い出のページをゆっくりめくるように言った。俺は何も言えず、その顔を見つめることしかできない。
「だけんこれからの二ヶ月で、少しでも多くお互いのこつ知っていかん?もちろんそれで雅治が俺んこつ嫌いになってしもたらそれはしょんなかばい。ばってん俺は、俺たちこれから色々あっと思うばってん、何だかんだずっと手ぇ繋いどるんやなかかっち」
子供をあやすように、千歳の骨ばった長い指が俺の指に絡んだ。
「そういう未来が、俺には見えっとよ」
緊張感のない顔で、千歳はへらりと笑った。俺はそんなの、口だけならどうとでも言えると思った。おそろしく楽観的で無責任な男だと心では確かにそう思うのに、慈しむように細められた瞳にただ、胸を締め付けられていた。唇をきゅっと結ぶ。
千歳といるとはじめてのことだらけで、俺はいつもどうしたらいいかわからなくなる。伝えたいことは確かにあるのに、それらが大きなかたまりになって喉につっかえて、何一つ出てきてくれない。
これから千歳と一緒にいるとしたら、そんなことばかりがずっと続くのだろうか?ただただ胸がやわらかく締め付けられ、むしょうに泣き出したくなるような、そんなことが。
「…俺は、我慢するのもされるのも嫌じゃぞ」
「気が合うっちゃね、俺もばい」
ようやく出てきた可愛いげのない言葉に千歳は、じゃあ早速明日デートをしようと、白い歯を見せて笑った。視線を手元に落とせば、指は変わらず絡んだままだ。
離そうと思えばいつだって離せる。けれどまだ、握り返す勇気はない。差し出された熱を跳ね退けることも掴むことも出来ず、ゆるく絡んだ指先にほんの少しだけ力を込めるのが精一杯だった。

(20111023)


2
 約500名ほどを収容できる大教室の教卓で、教授がスクリーンを使って昨今の地球環境について説明をしている。今日のトピックは『地球温暖化、オゾン層の破壊、チーム・マイナス6パーセント』。
この授業は全学年が履修できる一般教養の授業故に内容も易しく、正直言って皆内容よりも単位目的で出席しているといっても過言ではない。例にもれず俺もそうだ。
机に突っ伏して寝ている者、隠しもせず堂々と携帯をいじっている者、また真面目にノートをとっていると思いきや次の授業の予習に勤しんでいる者。これら多々いるわけだが、教授はすっかり自分の世界に入り込んでいるのかそれとも大学の授業なんてこんなものだと割り切っているのか全く気にしていないようだった。今は植林についての解説をしている。曰く昨今はボランティア団体だけでなく企業で植林に貢献しているところもあるらしく、君たちも就職活動の際はそういった企業取り組みの面も参考にしなさいとのことだったが、会社組織に入ったことのない人間に言われてもイマイチ釈然としないアドバイスだ。
後方に行くにつれて場所が高くなる教室の形状上、後ろの席からだと教授の薄い後頭部がよく見えた。ついこの間も植林ボランティアでマレーシアに行ってきたとのことだが、正直海外に樹を植えに行く前に自分の頭に気を使ってやるべきだと思う。樹だけに。とどうにもくだらないことを考えたところで、机に置いていた携帯が震えた。
メールを開くと件名は無題。本文はシンプルに『昼飯一緒に食わん?』とだけ書かれていて、ちょうどその時教授の「今日はここまで」という声で授業が終わりを告げる。皆荷物をまとめてわらわらと教室を出ていく中、俺もノートを鞄にしまい席を立つ。
「すまん、今日昼は別の奴と食ってくる」
「なんだよ、彼女かー?」「アホか、そげなんちゃうわ!」
これだからモテる奴は、だの、女ができたら紹介しろよー、だの口々に茶化してくる友人たちを適当にあしらい教室を後にする。リダイヤルで電話を発信した。
「…ああ、もしもし千歳?メール見たけど、お前今どこにおんの?」
できたのは彼女じゃなくて彼氏なので、報告の義務はないはずだ、うん。
電話で言われた通り食堂へ向かうと、すでに人がごった返していた。どこにいるんだと辺りを見回すと、左側の席から「雅治!」と名前を呼ばれる。視界を遮っていた人が去ると、その向こうにすでに二人分の席を確保した千歳が手を振っていた。
「お前今日何限からやったん?」
人込みを抜けると、千歳が席を取るために置いていた自分の荷物をどけて、座るスペースを空けてくれる。テーブルにプラスチックの鞄を置いて、千歳の向かいに腰かけた。
「三限からたい。ばってん一緒に昼飯食いたかち思って、早めに来てみたと」
「はぁ…席取っといてくれたんは助かったが、俺が無理言うたらどうするつもりじゃったんじゃ」
「ばってん来てくれたとや?じゃあそれでよかよ」
それはいまいち質問の答えにはなっていない気がするのだが。俺は頭をかく。だがまぁ、笑っているのでよしとしておこう。
「もう何か頼んだん?俺何も持ってきとらんから買ってくるきに」
「うん、A定頼んだと。荷物見とくけん雅治も行ってきなっせ」
その言葉に甘えて、財布だけ持って列に並ぶ。千歳はA定だと言っていたから俺はB定にしようか。おかず自体はB定のほうが好みだが、日替わりデザートはA定のほうが好みなので交換してもらおう。ちなみに断られることはハナから想像していない。多少の下心を抱いてB定食の食券ボタンを押した。

調理のおばちゃんから受け取ったトレイを持って席に戻るとすでに千歳は自分の定食と二人分のお茶を取ってきていいて、コップをひとつこちらのトレイに乗せてくれる。
「おお、あんがとさん」
「いえいえ。じゃあ早速食うばい!」
「そうじゃな」
ふたりで「いただきます」と軽く手を合わせた。
千歳の食べっぷりはとてもよく、食べ方が豪快なわけではないがおかずや白米の一品一品が綺麗に片付けられていく様は見ていてとても気持ちが良かった。
「そういやお前学科どこじゃっけ?」
「人間環境ばい」
「人間環境?人間環境ってどんなんすんの?」
「んーと、俺もまだよくわからんばってん、学年あがったらフィールドワークとかあるみたいばい」
「ほおー」
環境とつくくらいだからやはり日本や世界の環境についても勉強するのだろう。さっきまで自分が受けていた科目を思い出し、もっとはやくに出会っていたら履修を勧めて一緒に授業を受けられたのになあ、と思う。
「雅治は建築科やっけ?なんかむずかしそうばい」
「ん〜、そんなことないけどな。建築科おっても普通に一般企業に就職する奴も多いらしいし」
当初の思惑通り、自分と千歳のデザートを入れ替えながら答える。千歳はそれを見ても何も言わず、とりあえず食べられればなんでもいいようだった。
「ばってん雅治はそっち系に進みたいち思っちょうとや?」
「まぁ、うちはおとんも建築関係じゃしな」
そう言えばこいつの親父は陶芸家だっけか。むしろお前は大学へ来て将来はどうするつもりなのだと、そっちについて詳しく聞きたかった。手元のプリンの蓋を開けると、取り替えたゼリーを食べながら千歳が言う。
「それよか、言ってたとおり今日で大丈夫と?」
「ああ、いけるぜよ。お前も五限じゃろ?終わったら正門で待ち合わせな」
「了解ばい!あー、楽しみばいた〜」
にこにこと笑う千歳の向かいで、ミルキーな黄色の生地にスプーンを通す。 今日はこのまま千歳の家に遊びに行くことになっていた。今まで会うのはもっぱら俺の家だったので、千歳の家に行くのは初めてだ。
(まぁ、こないだはデートしようなんて言っても互いに金欠で、結局公園で猫に餌やったりベンチで話したりするだけじゃったしな…)
こんなシンプルかつ健全なデート、今時中学生でもしないだろう。内容的にはむしろ老成した年寄り夫婦といったかんじだが、俺たちはまだまだ付き合いたての恋人で、全てにおいて血気盛んな年齢だ。あれはあれでよかったのだがやはりデートをした気分にはなれない。そこでその日の帰り、千歳が『今度うちに来んね』と誘ってくれたのは二週間ほど前のことだ。
シャーペンの頭をカチカチと鳴らす。昼後の授業は必修科目で、少人数なのでそれなりに集中力がいる内容だ。食堂で千歳と別れ始まった講義を聞きながら色々と考えを巡らす。
(しかし家に行くっちゅーことは、つまり、そういうことなんか……?)
先ほど言ったとおり俺たちはまだまだ血気盛んな年頃だ。包み隠さず率直に言えばいわゆるヤりたい盛りであり、健康な肉体を持て余すことだって多々ある。欲求を否定する気はないがしかし、もしもそうなった時、上下はどうやって決めるのだろう。一応あらゆる可能性を鑑みて、自分が千歳に突っ込まれるのも自分が千歳に突っ込む姿も想像してみたが、そのどちらも思わず頬が引きつってしまうようなビジョンしか浮かんでこなかった。
(まぁ男どうしじゃしな…ある程度絵面がエグくなるんはしゃあないか)
とはいっても自分がどちらの側に立つかで心境はだいぶ変わってくるはずだ。そうこう考えている内にも黒板には刻々と授業内容が刻まれていくわけだが、今の俺にとって目下の問題はテストに出る建築用語をメモすることではなく、自分の貞操が一体どうなってしまうのかということだった。

「雅治、こっちばい!」
結局シミュレーションやイメトレでその日の授業はすべてうわの空で終わってしまい、帰り支度をして待ち合わせの正門へ向かうとすでに千歳の姿があった。
「呼ばんでもわかるよ、お疲れさん」
何しろ遠巻きに見ても他の者より頭ひとつぶん以上飛び出している。
「んじゃ、行くか」
「うん」
学生たちの帰宅の波に乗り、俺たちも駅までの道を歩き出す。千歳の家までは電車で二十分、乗り換えもなしだ。最寄り駅からは徒歩二十分ほどかかるらしいが、それでも中には片道二時間もかけて通っている生徒もいることを考えると通学的にはかなりの好条件である。着いた駅の改札をくぐり、千歳に先導される形で家までの道を歩き出す。
「なんか、だいぶ落ち着いた場所じゃのう」
「あんま騒がしいのは好かんけんね」
駅から少し離れれば人気も少なく、たまにすれ違うのは買い物帰りの主婦や小学生がほとんどだった。
「こげに近いっちゅうことは、学校の紹介か何かで決めたん?」
「いや、親が探して勝手に契約とか全部済ませちょったばい。あんま学校と離れとると間違いなく行かんくなるやろうっちこつで、荷物も送っといたけん明日からはここ住めち言われて、住所ば書いたメモ渡されたと」
千歳は顎に人差し指を当てて当時のことを回想する。
「…そのアバウトさ、なんかいかにもお前の家族っちゅうかんじじゃなぁ」
やはり血がつながっているだけあって、家族は誰より本人のことをよく理解しているらしい。千歳の奔放さもきっと親譲りなのだろう。そんな話をしながらひとつ道の角を曲がると、住宅街の中にひとつだけ建っているアパートがあった。
「着いたばい!」
「ほう…ここか」
正直どんなところかと思ったが、思っていたほどボロくはない。そりゃあ閑静な住宅街ではちょっと浮いているが許容範囲だろう。ただ
「雅治?どげんしたと?」
「いや、なんか…出稼ぎの外人とかいそうなアパートじゃなと」
いかにも刑事ドラマの事情聴取のロケとかで使われそうだ。それを聞いた千歳は目を丸くした。
「よくわかったとね〜!!ちょうど俺んちのふたつ隣に、出稼ぎに来とるインドネシア人ば住んどっと」
ちなみに名前はハムサさんばい!と千歳は嬉々として言った。どうやらそのハムサさんは故郷に仕送りをする為に日本に出てきて、近くのかまぼこ工場で働いているらしい。
「ああ、そう…もう、それはええからとりあえず部屋連れていきんしゃい!二階か!?」
ほっとけばずっと続きそうな話を強引に切り上げ、でかい背中を押して階段を登る。一段足をかけるたびに鉄で出来た板がキイキイと不穏な音を立て、いつかこいつが踏みぬいてしまわないかと心配になった。
(それにしてもなんだか食欲をそそる名前じゃの、ハムサさん)

(20111029)

3
 千歳の部屋は二階の角部屋で、ちょうど今は隣が空室らしく、壁は薄いが少々騒いでも怒られないとのことだった。玄関の横がすぐ台所という、アパートによくある作りだ。
「へぇ、意外と綺麗にしとるんじゃな」
室内は思っていたより整頓されていて、綺麗というよりもともと物が少ないのだろう。ブラウン管のテレビと、その上に置かれたおそらく再生専用のDVDデッキ。それ以外はジブリのDVDが並んだ棚くらいしか目立ったものはないのだが、物が少なくても殺風景な印象を与えないのは、棚の上にいくつか可愛らしいキャラクターマスコットが並べられているからか。
「狭かばってん、適当に座ってくれんね」
「おん」
用意してくれた座椅子に荷物を置いて、なぜかベランダへ出た千歳のあとを追う。
「なぁ、そういやスーパーとか寄ってこんかったけど…って、何しとんの?」
洗濯物でも取り込んでいるのかと思えば、何やらベランダにしゃがみこんでいる。
「んー?昨日のうちにビーフカレー作っといたばってん、コンロに置いとったら腐ってまうけんね。うちで風通しのよか場所っち言うたらここしかなかけん…うん、ちゃんと美味くなっちょるね」
指で軽く味見をすると鍋を持って台所へと向かう。俺もあとを追った。
「雅、けっこう腹減っとう?うちレンジなかけん鍋ごとあっためないけんばってん、十五分くらい待てっと?」
「大丈夫じゃ」
コンロの前に立つ千歳の横で、徐々に煮えていく鍋を眺める。
「お前のことじゃきてっきりカップ麺とかで済ませとるんやないかって思っとったけど、意外と料理とかするんじゃなぁ」
「まぁ、中三から一人暮らししとるけんそれなりたい。ばってん大学入ってこっち来てからは、桔平が色々レシピとか教えてくれっことも増えたけん、料理の幅は広がった気がすっとね」
「桔平っちゅうと…ああ、橘か」
橘桔平、かつて千歳と並んで九州二翼と呼ばれた男だ。当時の拠点はそれぞれ大阪と東京だった為親友といっても中々頻繁には会えなかっただろうが、千歳がこちらに来てからはよく顔を合わしているようだ。
「あげなナリして桔平は料理が趣味だけん、新作出来たけん食べに来いっちゅうて毒見させられることも多かよ」
「ほーう、それは羨ましいのう。次誘われたら俺も呼びんしゃい」
「ああ、よかねぇ。ついでに三人で遊びに行くと?」
「それは構わんけど…」
「けど?」
「中々異色のメンツナリ」
「ははっ!もっともばい」
今度ふたりで橘に料理を習いに行こうという話になったところでカレーが出来上がった。俺は水を、千歳はカレーが盛られた皿を持って居間のミニテーブルにつく。その頃には時間ももう20時前になっていた。
「味はどげん?」
「ん、美味いぜよ。なんか辛いっちゅうか、独特の味がするの…なんじゃこれ?」
「おお、よくわかったとね!隠し味にたっぷりニンニク入れてみたばい」
「に、にんに……!」
「ん?どげんしたと?」
「…いや、なんでもないぜよ」
仮にも恋人と食べる夕飯にニンニクはどうなんだと思わなくもないが、極端に畏まられても困る。俺たちにはこれくらいがちょうどいいのだと思うことにしておく。
「デザートにはシャーベット作ったけん、後で一緒に食うばい!」
「おう。お前デザートなんかも作れるんじゃな」
「いちいち買ってたらバカにならんけんね。100%ジュース使った庶民の知恵ばいた〜」
一晩寝かせたおかげで肉も野菜もとろとろになったカレーを食べ終えると、千歳力作のデザートが運ばれてくる。ただデザート用の洒落た食器がないらしく、オレンジ色のシャーベットが盛られているのは白飯用であろう陶器の茶碗だった。
「まぁなんちゅうか、お前らしいの…」
「すまんね、次来た時には買っとくばい」
「気にせんきに別にええけどな」
受け取ったスプーンで茶碗からシャーベットを掬う。
「お前明日何限から?」
「二限ばい。雅治は?」
「俺もじゃ」
ということは明日も昼食は千歳ととることになるだろう。付き合いはじめて間もなく、いきなり学校で肩を叩かれたことを思い出した。
「まさか、同じ学校じゃったとはな…」
行儀悪く口でスプーンを揺らしジト目で睨むと、千歳はイタズラが成功した子供のように笑った。
「俺も最初はびっくりしたばい。雅治が吐いて介抱した日、送るのに何か家の住所わかるもん持っとらんかち思って悪いと思いながらも財布見たら、同じ学生証入っちょるんやもん」
それならそうと早く言え…と思わないでもないが、自分が千歳の立場ならやはり同じことをしただろう。人が驚いている顔というものはいいものだ。(自分がそんな間抜け面を晒してしまったのは癪だが)
「にしても、ほんなこつすごかねぇ。雅治んこつは一応中学ん時から知っとったばってん、絡んだこつほとんどなかもん。四、五年ぶりに、それもあげな路地裏でまた会って、大学まで同じやなんて。ほなこつ運命ば感じずにはおられんたい!」
運命、と躊躇いなく口にした瞳はキラキラと輝いていた。
「お前」
「ん?」
千歳の笑顔が眩しかった。
「…お前、口にシャーベットついとる」
「えっ!うそ!?」
はずかしかー!と口元を抑える千歳に布巾を渡してやる。わたわたと拭っている間に二人分の空の食器をまとめてシンクへと運んだ。一応洗い桶はあるようだが、中身は空っぽで水が張られていない。
「なぁちとせー、これ水漬けといたらええん?…って」
居間を覗き込んで千歳を見れば、あぐらをかいたままうつらうつらと船を漕いでいる。
「おまんはのび太か…」
とりあえず食器を浸け置きし、自分も部屋へ戻る。このままにしておくわけにもいかないので、襖で繋がっている和室から枕と掛け布団だけ引っ張ってきた。194センチの巨体を起こさないよう横たえるのは至難の業だったが、腕をプルプルさせながらどうにかこなし、上から布団をかけてやる。(足がはみ出してしまうのは身長上仕方ないだろう)
一仕事終えた気分でやることもなく、寝息を立てる千歳の枕元に腰をおろした。
(…よう寝とる)
本能で布団のぬくもりを感じ取ったのか、眠りが本格的に深くなっていくのが規則的な呼吸でわかる。額にかかる前髪をよけると、形の良い額があらわになる。
この間の公園デートから今日まで、どうして二週間も時間があいてしまったのかという訳はわかっていた。ここ最近、千歳は毎日バイトをしているのだ。それも割が良く週払いで稼げるからと言って夜中の作業現場で働いているらしい。聞けば俺に会いにホストクラブへ通っていた時もそこでバイトをしていて、俺と付き合うようになって一度は辞めたそうなのだが、千歳はその恵まれた身体能力と体格から責任者にたいそう気に入られたらしく「いつでも戻ってきてくれ」との言葉に甘えて、また世話になることにしたらしい。
少しだけ隈が目立つ目元をそっとなぞる。唇を噛み締めた。言わないだけで、本当は千歳がそうまでして金を稼ぎたがる理由だってわかっているのだ。さっき布団を取りに向かった和室で見かけた、住宅情報誌の束が蘇る。
「……俺はまた、お前にだけ頑張らせてしまっとるな」
こうなったら足がはみ出てしまうのは致し方ない。千歳の首元までしっかり布団をかけ直し、台所へと向かった。

それから千歳が目を覚ましたのは約一時間後だった。
「んん……?」
「あ、起きたか」
横でカゴに溜まっていた洗濯物をたたんでいると、千歳がのっそりと起き上がった。
「あぇ、おれ…」
「はは、気持ちよさそうに眠っとったわ」
寝起きで呂律が回っていない様は、本当にでかい子供そのままだ。
「うっわ、すまん!!今何時とや!?くそ、一緒にDVDば見ようち思っちょったのに…ああもう!」
千歳は頭を掻いて慌てふためき、俺も最後の洗濯物をたたみ終わる。
「そげなんまた一緒に見ればええじゃろ…さて、粗方終えたし、俺はそろそろ帰るぜよ」
「えっ!?あっ、じゃあ駅まで…!」
財布財布、と急いで身支度をしているのを静止する。
「大丈夫じゃ、道順は覚えとる。下着とバスタオルはそこにまとめてあるし、食器と風呂も洗っといたから、今日はあったまってはよ寝んしゃい。じゃあな」
「まっ、雅治…!」
「また明日、学校でな」
あまりに俺があっさりしているから機嫌を損ねたかもしれないと焦った声色の千歳に、出来るだけ優しく微笑みかけた。通じていればいい、と思うが、どうだろう。
扉を閉めて、件のハムサさん宅の前を通り、夜は一層カンカンと響く階段を降りる。歩き出した夜道、見上げた空はやけに星がくっきりと輝いていた。
ひとつ、ふたつ、と数えるごとに、見える星は増えていく。まるで初めて知ったような気がするが、この輝きは、最初からあったものなのかもしれない。輝きはずっとそこにあったのに、俺はいつだって真っ暗だと思い込んでいて、それが千歳と出会うことで見えるようになっただけなのだ、きっと。そしてそんな些細な変化が、こんなにも世界を変えてしまった。
(千歳に会う前の俺が今の俺を見たら、どう思うじゃろうな)
空を眺め、駅までの道をゆっくりと歩いた。それと同時にある決意を固める。
ここにはもう、二度と来ることはない。

(20111125)

4
「なあ、明後日空いとらん?」
週の半ば、水曜日の学食で、頼んだ定食に手をつけながら言った。
「ん、たぶん空いとるばってん、なして?」
「いや、昨日実家から電話かかってきて、大量に食いもん送ったち言われてな。どうせ俺一人じゃ消費しきれんし、やるきに持って帰りんしゃい」
生姜焼き定食の漬物をちまちまつまむ俺の前で、千歳は美味そうにカツ丼を咀嚼する。俺の皿にあった付け合せのポテトサラダもとっくにこいつの腹の中だ。
「え、よかと!?今月厳しかったけん、もらえっとたいぎゃ助かるばい!……ばってん、雅治も出来合いのおかずばっかやなくて、きちんと食わないかんとよ?」
自分だって自炊を始めたのは最近のくせに、一気に健康に口うるさくなったものだ。頭を掻いてごまかす。
「わかっとるって。じゃあ金曜の、7時過ぎならいつでもよかけん俺んち来んしゃい」
「え、学校終わってから一緒に行かんと?確か金曜は、雅治も4限で終わりっちゃろ?」
心中で苦虫を噛み潰す。本当に、頬に付いている米粒にも気付かないくせに、どうでもいいことだけはよく覚えている男だ。
「……ちょっと、バイトの面接があっての」
伸ばした指で米粒を拾ってやる。おとなしく身を任せていた千歳がぴくりと眉を動かした。
「……それ、前のホストとか、いかがわしいやつじゃなかと…?」
「アホ、違うわ!普通にコンビニバイトじゃ」
微温くなった味噌汁をかきまぜる。何か後ろめたい気持ちがあるときに千歳の目をじっと見るのは苦手だった。言外に、全て見透かしているぞと言われた気分になる。ひそめられた眉に嘘がバレたのかと一瞬肝が冷えたが、どうやら思い過ごしだったようだ。千歳は「それならよか」と快諾した上で(元々許可を取る必要もないのだが)、「頑張りなっせ!」と髪の毛をかき混ぜる激励までしてくれた。
「あー、がんばるわ……」
ボサボサになった頭で、学生向けの濃い味付けが染み込んだ油揚げを噛み締める。中からじゅわっと出汁が滲んだ。
(ほんまにこれは、頑張らないけんのう……)
千歳の家に行ったあの日から、一人で悶々と考え抜いた先に出した答えを、ようやく形にする時が来た。こうなったら腹をくくるしかない。ここ数日行なってきた仕込みの成果はなかなか芳しく無かったが、どうにか今日で形にしなければ。次の授業の予令がなるまで、ふたりでだらだらと昼食をとっていた。

「あー、美味かったばい!」
「ちゅうても大したもんやないけどな」
「ばってん一人暮らししとると、人が作ってくれたもん食う機会なんち中々なかけんね。たいぎゃ美味かったばい。ごちそうさま」
千歳は両手をあわせて軽くおじぎをする。多めに盛りつけたパスタは綺麗に平らげられていた。
約束の日、千歳は指定した時間に家にやってきた。聞けばまだ何も食べていないと言うので簡単な晩飯を振舞ったのだが、こんなに喜んでもらえると作りがいがあるというものだ。空っぽになった皿をシンクへ運び水につける。
「それんしても、雅治は何も食わんでよかったと?」
「ん?あー……俺お前来る前にもう食ったからな」
「そう?まあなんにせよ、雅治はもっとたくさん食ったほうがよかよ」
そう言う千歳の口端には、昼と同じように口端にミートソースが付いていた。
「……いっぱい食うんは見とって気持ちええけど、お前はもうちょっと頓着したほうがええな」
俺たちは足して割ったらちょうどよくなるのだろうか?ティッシュを差し出すと、千歳は悪びれない子供の顔で笑った。
「お前、どうせ泊まってくじゃろ?湧いとるきに先風呂入ってきんしゃい」
トイレから戻ってきた千歳に言うと、困ったように俺の隣に腰掛けた。
「家主より先ん入るんは悪かよ」
「そんなん気にせんでええし」
むしろ熱い風呂は苦手なので、先に入って少し温度を下げておいてほしい。そう言えば千歳は少しだけ逡巡して「そういうことなら」と荷物を持って浴室へ向かった。
「…っし」
後ろ姿を見届けて寝室へ向かう。ここまではほとんど計画通り。あとは千歳が入浴している間に最低限の準備をして、自身も身を清めるだけだ。その場でひとつ深呼吸をして、ベッドサイドのチェストの引き出しを開けた。中の道具をひとつずつ確認していると、予想以上に緊張している自分に気が付いて思わず苦笑してしまう。童貞の時ですらこんなに念入りな用意をして夜に臨んだりはしなかった。
「……そりゃそうか」
だって女相手のセックスならローションなど不要だし、全てを晒し身を貫かれる畏怖なんてものもなかったのだから。一見ドレッシングのようなボトルを手のひらで転がすと、中の粘液がゆっくりと左右に動いた。

「千歳、セックスしよう」
俺がいない間に自分の布団の場所を探していた千歳の腕を取り、寝室へ引っ張りこんで言った。
「は……?」
「いやか?」
千歳はまるで、異国の言語を耳にしたかのように口を開けている。「ヤろう」ではなく直接的な言葉を使ったのは「何を?」と聞き返されてしまったら俺が二度恥ずかしいからだ。
「い、いや……別に嫌ではなかばってん」
どうしていきなり、と千歳はうかがうように言った。
確かにそうだ。ホモであることを受け入れられなかった恋人が突然男を求めるようになったら驚いて当然だろう。俺のそういう不安定さもひっくるめて受け入れてくれた千歳は、ホストクラブのトイレの一件以来、全くといっていいほど過剰なスキンシップはしてこなかった。かといって千歳が先に進みたい気持ちを必死に抑えこんでいたとは思わないし、俺自身焦燥感を感じたこともない。仮に俺が「一生セックスはしたくない」と言ったとしても、千歳は笑って頷いて、手を取って歩いてくれるだろうという根拠のない確信すらあった。しかし、もうそれだけではいられないと思ったのも事実だ。いつまでもおんぶにだっこではいられない。
千歳は何も言わずこちらを見ている。けして答えを急かしたりはない。俺が思うことをひとつひとつ伝えればいいのだと自分に言い聞かせ、口を開いた。
「……俺、今考えとることがある。その話を、したいんじゃけど、なんつうか…今のままじゃ、できんくて」
話しながら、手探りで見つけた単語を不恰好につなぎあわせていく。
「んで、それってけっこう、俺…たちにとって大事な話で、じゃから聞いてほしいんじゃけど、その前に、どうしても、その……」
途切れ途切れに紡がれる言葉を、千歳は黙って聞いていた。俺の声以外無音の室内で、言葉が詰まってしまう。
「……それは、雅治が決めたこつ?」
『それ』が指す意味を掴みかねていると、すぐに察してくれたようだ。
「ああすまん、わかりにくかったばいね。それは、つまり雅治は、自分の意思で俺に抱かれてもよかっち、思ってくれとうちこつ?」
「抱く」という言葉で、これからしようとしていることが生々しく浮き彫りになった気がした。いつの間にか両肩を掴んでいた手のひらの温度が、服越しに伝わってくる。胸のあたりで渦巻く、何かを急き立てる感情が喉までせりあがった。
『抱かれてもいい』んではなくて、俺はお願いをしているのだ。きっと相手が千歳でなければこんなことは思わなかった。けれどそんなことを言えるはずもなく、羞恥を押し殺してわずかに頷くのが精一杯だった。
「……ほんなこつ、後悔ばせんと?」
「……そんなん、せんよ…んっ」
言い終わる前に、言葉を吸い込まれるように口づけられる。
「ぁっ、んっ…!」
口内に差し込まれる舌と、掴まれた両肩が熱い。ぴちゃぴちゃという水音と、口づけが深くなるにつれ荒くなる息がやけに耳に響いた。腰と頭を抱かれ、俺も両腕を千歳の首に回す。口づけに没頭していると膝裏にベッドが当たり、唇を重ねたままゆっくりと押し倒された。
「はっ、はぁっ……」
重力に従って俺の唇に垂れた銀糸を、千歳は親指で拭う。
「っはあ、雅治、途中で嫌んなったら殴って止めてくれてよかけん…」
「ッあ……!」
その言葉とともに、強く首筋に吸い付かれる。余裕のない声と、首筋に走る甘い痛みになぜだか涙が滲んだ。千歳は数回キスマークをつけると、左の鎖骨のくぼみを舌でなぞる。くすぐったくて少し身を捩ると、右手の親指がそっと乳首に掠って、身体がビクリと跳ねた。
「っあ!」
触れるか触れないかの距離に置かれた親指は、徐々に優しく乳輪をなぞり始める。
「んっ!んんっ……!」
「雅治、だいじょぶばい。楽にして…」
熱を持つ身体を落ち着けようとすると息づかいが早くなる。酒も薬も飲んでいないのに、初めてでこんなに反応してしまうものなのだろうか。淫乱だと思われやしないだろうか。行き場のない指先を見つめていると今まで触れられなかった右の乳首を舐められ、体温は上がるばかりだった。
「ン、あ、ふ…っ!」
上がる声を手の甲で抑える。意識をそらそうと目を閉じてみるが、ぬめる舌の動きと弄られる感覚をダイレクトに感じ取ってしまい逆効果だった。ふと目線を舌に向けてみると、胸元で動く千歳の舌が見える。厚い舌で、上に下に。右に左に。
「ひ、ンぁっ……!」
動きにそって押しつぶされる乳首が、自分のものとは思えないほど卑猥だった。
そういえば、とフォークに巻きつけられた淡い黄色の麺が、大きな口の中に飲み込まれていった様を思い出す。ソースをぺろりと唇を舐めるサーモンピンクの舌。自分もあのパスタみたいに、跡形もなく食べられてしまうのだろうか。それはとても幸せなことだと思った。
「ぁっ!」
ふいに乳首を弄っていた指が離れたと思えば、下半身に刺激が走った。キスと愛撫だけで既にテントを張っている性器をズボン越しに撫でられる。興奮を抑えた、少しだけうわずった声がした。
「もう勃っとうね。ちょっとだけ、腰浮かせて」
薄暗闇の中、そこだけもっこりと天井を向いている自分の息子が目に入る。羞恥を抑えて、千歳の言うとおり軽く腰を上げた。千歳は浮かせた腰とベッドの間に手を差し入れ、ズボンとパンツを一緒に引き抜く。これで勃起した性器を隠すものはない。薄い体毛のもとせつなく立ち上がり、快感を如実に訴えている。むき出しの下半身がスースーすると同時に、舐めるような視線が絡みつくのを感じた。
「ふふ、先っぽ濡れとるばい。むぞかね」
千歳は舐めて湿らせた親指で、そのまま先端をくるくるとなぞる。待ちわびた直接的な刺激に、今度は意図せず腰が浮いた。
「ひっ…!っち、千歳!そこ、引き出し、ローション入っとるからっ…!!」
このままだと早々に達してしまう。両膝を立て、早く慣らしてくれるよう促した。
「なんえ、せっかくむぞかのに……まあよか。これからいっぱいかわいがっちゃるけん」
おあずけを食らって唇を尖らせるが、すぐに気を取り戻してチェストの引き出しを開ける。蓋を開けたローションを手のひらにたっぷりと垂らしあたためると、俺の立てた膝を少しだけ開かせる。棒のようなものがぴったりと穴をふさいだのがわかった。
「んじゃいれるけん、大丈夫と…?」
「ん、だいじょぶじゃ……っ!」
出来るだけ体の力を抜いて瞳を閉じると、アナルに引き攣った感覚が走る。それはコーヒーをかき混ぜるマドラーのようにしばらく小さな円を描いて、今度は芋虫のように身体をくねらせて体内へと侵入してきた。
「んッ…!」
「気持ち悪か?だいじょぶと?」
「は……なんか変なかんじじゃけど、平気ぜよ…」
肉がめり込んでくる圧迫感に、気を抜けば息を詰めてしまいそうになる。本来出口である場所に挿入しているのだから、異物感があるのは当たり前だ。しかし男同士である俺たちには、この異物感を伴わないセックスはあり得ない。何も殺されるわけではないのだから大丈夫だ。生理的な涙がにじむのも、体内で異物がうごめく奇妙な感覚も、全てその先にある段階の対価だと考えればなんということはなかった。
「っは、ぁあ……」
ゆっくり時間をかけると段々息づかいのコツもわかってきて、指が三本入るまでになった。思っていたより身体への負担も少なく、耐えられない痛みではない。この頃には指の動きに対しても異物感とむず痒さが半々くらいになっていたので、もしかしたら感じるのは無理でも挿入は順調にいけるかもしれないと思ったのだが、それは大きな間違いだった。
「痛ッ…!!」
ゴムを着けた性器の先端を少し押し込まれるだけで、驚くような痛みがあった。押し込まれると言っても、ほんの先っぽほども入っていない。押し付けられた性器で押し広げられたアナルが悲鳴を上げているといった感じだ。ただでさえ馬並みの千歳のそれと、ケツの穴バージンの俺。よく出産は鼻に大根を突っ込まれるような痛みだと言うが、それを言うなら、俺たちがこれからしようとしていることは鼻にスイカをぶち込むのと同じくらい、無謀なことのような気がした。
「ま、雅治、辛かと?」
「だ、だいじょぶじゃき、もっかい…!ッ、ぅうッ……!!」
何度挑戦しても全く変化はない。千歳は性器を挿入しようとしては、俺の苦悶の表情を見て腰を引いてしまう。最初に使ったローションはもう乾きかけていた。俺が声を上げてしまうからいけないんだと唇を噛みしめると、千歳は汗で張り付いた俺の髪の毛をかきあげる。見上げた顔は、少しだけ困ったように笑っていた。
「……千歳…?」
「……なあ雅治、無理せんでよかよ。やっぱいきなりは無理だけん、また今度にせんね?雅治が俺とシてもよかち言ってくれた気持ちはたいぎゃ嬉しか。急がんでよかけん、な?」
俺の頑なな態度に呆れたわけではないだろうが、子供に言い聞かせるようなその口ぶりに、鼻の奥がツンとした。千歳は全くなにもわかっていない。今日でなくてはダメなのだ。例え俺のアナルが裂けて、痔になって、座るときはいつも専用のクッションが必要になったとしても、絶対に、今日でなくてはいけないのだ。涙が零れそうになるのを堪えて、千歳の腰に両足を巻きつけた。
「ちょっ、雅治!?」
「いやじゃ!」
イエスの返事しか聞きたくなくて、母親から離れるのを拒むだだっこのように首にしがみついた。
「いやじゃ、今日じゃなきゃダメなんじゃ!使い切ってええからもっとローションぶちまけて、俺が痛いって言っても、止めんでええから…!!」
こんなことを涙声で懇願する自分はひどく滑稽だったが、それ以外に言いようがなかった。
「ッ、頼む…!!」
ぎゅっと目を閉じると、目尻からひとつ涙が零れた。それはゆっくりとこめかみを伝って筋をつくる。静寂が痛く、ほとんど祈るような気分だった。
しばらくして、千歳は何かを決心するような息を吐くと、しがみついている俺の頭をポンポンと撫でた。割れ物を扱うように、ゆっくりとベッドに横たえられる。濡れた眦にそっと唇が押し当てられた。
「……ほんなこつ、それでよかね?もう途中で嫌ち言うても、絶対止められんとよ?」
その言葉に必死で頷く。何も痛い思いをしているのは俺だけではない。千歳だって相当の痛みを感じているはずだった。これだけ失敗続きで、未だに勃起の状態を保っているのが不思議なくらいだ。
千歳は俺の膝裏を持ち上げて、先端をアナルにあてがう。
「……じゃ、入れるばい。ごめんな、ほんなこつ、好いとうよ」
次の瞬間、これまでにない圧迫感と質量が押し寄せた。
「ッ〜〜〜〜!!」
シーツを握りしめ、喉が反る。声が出ない。これじゃ痔になるどころか身体が股から二つに裂けてしまうと思った。がっしりと掴まれた腰が、荒い息とともに何度も引き寄せられ、少しずつ性器を飲み込んでいく。ほんの数ミリの侵入のたびに、穴のふちが裂けていくような気がした。今や俺の身体の全権のみならず、生き死にまですべて千歳の手のひらの上だ。全てを委ねた俺は出来るだけ体の力を抜くことに専念しながら、先程の千歳の言葉を反芻していた。
しばらくすると、千歳の動きが止まった。不思議に思って目を開けてみると、覆いかぶさってきた身体に強く抱き締められる。
「ん…ッ、ち、ちとせ……?」
下半身のじくじくとした痛みはまだ続いている。
「っ、はっ……全部、入ったばい」
その大きな身体は俺をすっぽりと覆い隠してしまう。ぴったりとくっついた身体には、紙一枚入る隙間もない。一瞬何を言っているのかわからなかったが、痛みをやり過ごすために握っていた拳を解かれ、大きな手に包まれた瞬間、言葉にならない気持ちが胸に押し寄せた。安堵、喜び、嬉しさ、充足感、いとおしさ、どれもこの小さな身体では収まり切らない。涙が出た。繋がった場所を通じて、この気持ちが少しでも千歳に伝わればいい。繋いだ手に強く力を込めた。
「は、ッ、キツかばってん、あったかかね……な、もうちょいこうして、そんで動いてもよか…?」
優しい声にこくこくと頷いて、目、鼻、まぶた、あらゆるところに降ってくるキスを享受する。唇と唇を重ねながら、好きな人とひとつになるというのは、思っていた以上に難しくて、痛くて、そしてそんな苦痛すら一瞬でふっ飛ばしてしまうほど、満たされることだと知った。

(20110516)


5 「っあ〜……し、死ぬかと思った…」
あらかじめ覚悟はしていたが、まさかここまでハードだとは思わなかった。というか、千歳のサイズが規格外だったのだ。ここしばらく自分の指で慣らしていた特訓は、結局何の役にも立たなかった。
「はは、痛か思いさせてすまんかったばいね……雅治も、なんとかイけてよかったばい」
「…ほぼ手コキじゃけどな」
「ばってん、声は出とったとや?」
一度欲望を吐き出してしまうと思考は急に冷静になる。最中の自分のことをほじくり返されるのは居心地が悪いのだが千歳は「たいぎゃむぞらしかったばい」などと臆面もなく口にするから、近づいてくる唇に背を向けた。
「ちょ、なして離れっと!?もうちょいこっち来なっせ」
腕枕で寝返りを打つと引き寄せられ、労るように腰を撫でられる。
「あとで軟膏買ってくるけんね」
「……ん、頼む…」
向かい合って横になれば、千歳の脚が俺の脚に触れる。不思議なものだ。肌を合わせるのは初めてだったのに、布団の下で絡む温度は、いつの間にかすっかり身体に馴染んでいた。
「そうたい、喉乾かん?何か飲みもんとってくるばい」
しばらく二人で横になっていると、千歳は思い出したように腰を上げる。
「あ、ちょお待って…!」
引きとめようと咄嗟に身体を起こせば、無茶をした下半身がズキンと痛んだ。
「ッ!千歳」
「なんね雅治、しんどかろ?おとなしく寝ときなっせ!」
寝かしつけようとする大きな手が肩に触れた。その腕をそっと掴む。
どうしても今、伝えなければならないことがあった。
「俺、やっぱり、ここでお前とは住めんよ」
言えば千歳は驚いたように一度瞬きをしたが、俺のこの答えを全く想定していなかったわけでもなさそうだった。一瞬の間が空く。
「……そう。理由ば、聞いてもよか?」
責めているわけじゃない。穏やかな表情は、まるではじめから答えを知っていたかのようだった。一度唾を飲み込んで、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「……お前と初めて会ったときは、まさかこんなことになるなんて、夢にも思っとらんかったよ。中学の時は話したこともなかったお前と何の因果かまた再会して、こうして付き合うことになって、ほんまに自分でもびっくりしとるんじゃ。……これはまだ話しとらんけど、俺、お前と会うまでにも色々あってな。ホストはじめたんも半ばヤケになっとったからっていうのもある」
酒も、金も、人間関係も、触れれば触れるほど全てが空っぽだった。それでも自分にはお似合いだと思っていたし、自分から動かない限り何も変わらないなら、このままずっと漂うように生きていこうと思った。
何も言わない千歳を見つめる。安心させるように笑顔を作った。千歳と出会ってから、乾いた自嘲の笑みしかできなかった自分がいつの間にか、こんなにも柔らかい微笑みを覚えていた。
「……そんな時に、お前と会ったんじゃ。お前は気付いとらんかもしれんけど、俺は、お前が思っとる以上に救われとるよ。感謝もしとる……でも俺たち、何だかんだ言って、お互いのことまだ全然知らんじゃろ」
千歳のことは好きだ。これからずっと一緒にいれば長所はもちろん、悪いところだって見えてくるだろう。それも構わない。きっと知れば知るほど見えてくる長所にも短所にも、同じだけのいとおしさを抱けると感じている。
それでもここには、過去を思い出す記憶が多すぎる。
「じゃからっ……」
そこまで聞いて千歳は、俺のうなじに手をまわし頭を引き寄せた。
「……雅治ん気持ちは、よくわかったばい」
包み込むように抱きしめられると、頬がぴったりと触れる。外国人のスキンシップのようだった。
「…まあ、そぎゃんこつ言われたらしょんなか。今回は引き下がるとすっかねぇ……ばってん、これからも遊びに来てよか?」
千歳は物分りよく受け入れた顔をしているが、その口ぶりは見えないながらに確かな距離を感じさせた。こんなに近いのに、見えない壁が出来ていく。
「…ッ〜〜!最後まで聞きんしゃい!」
「イデっ!?」
「じゃから、ここ引っ越して一緒に住もうって!!」
離してたまるものか。音を立て勢い良く挟み込まれた両頬の痛みと俺の言葉に、千歳は今度こそ目を見開いた。
「もう俺は、お前のアパートには行かん。お前もここには来んくていい。これから、新しい場所一緒に探そう。まっさらなそこで、俺は、お前と一緒に暮らしたいんじゃ」
積み木を積み上げるように、ひとつずつでいい。家具の形からトイレのスリッパの色まで全てふたりでイチから決めて、どこにでもあるありふれた毎日を始めたいと思った。上澄みを掬っているだけでは、これ以上前には進めない。
現実に生きていくということは、漫画ほど単純じゃない。例えどれだけ想い合っていても歯車のズレは必ず生まれるだろうし、好きだから許せないこともある。綺麗なものなんてほんの僅かで、面倒くさくやっかいなものばかりが溢れかえっている。一人のほうがよっぽど身軽だけれど、俺は、そんなありふれた日常を千歳と歩きたいのだ。
「……もしかして、さっき言っとった話って、これね?」
半ば呆然としている声に頷く。その為に、今の場所を捨てるのだ。既に退去の申請は済ませている。これは今まで散々千歳に寄りかかってきた俺が出来る、最大の覚悟だった。
くっきりとした瞳をじっと見つめ返せば千歳は少しだけうつむく。小さく鼻をすする音がした。
「何、泣いとんの?」
てっきりもっと喜んでくれると思っていたのに。茶化して親指で目尻を拭ってやれば、千歳は俺の両手を強く包み込む。
「…だって、おれ、絶対断られると思っとったばい……俺は雅治んこつたいぎゃ好いとうばってん、おんなじだけは、好きになってもらえんち思っとった」
瞳を閉じて、暖を取るように俺の手を頬に押し当てる。その姿を見て胸が傷んだ。
やはり他人に対して、愛情を与えるだけでいいと思っている人間などいないのだ。誰だって人を好きになればきっと、少なからずの見返りを求めてしまう。好きと言わない限り同じ言葉が返ってこない状態で、不安にならないわけがなかった。
「……うん、すまん。言葉が足りんのは、俺の悪いところじゃな」
うつむいている千歳と額を合わせる。そういえば昔読んだ絵本に、こんなおまじないがあった気がする。呪文はなんだっけ。
「……千歳、好きじゃ」
名前を読んだその瞬間、空っぽの胃が間抜けな音を立てて鳴った。
「…え?」
突如静寂を切り裂いたその音に、目の前の千歳はきょとんとした顔でこちらを見つめている。あまりのタイミングの悪さに、一気に顔に血が集中してくるのを感じた。
「あれ、珍しかね。雅治」
千歳は先ほどまで涙ぐんでいたくせに、もうケロリとしている。立場逆転だ、今度は俺が泣きそうになりながら、空気を読まない腹を両手で抑える。
「ッ…!!しょうがないじゃろ、昼から何も食うとらんのじゃ!」
「へ?」
穴があったら埋まりたい羞恥の中、口をついて出た言葉にハッとする。
「あれ?俺が来た時、もう晩飯食ったち言うとったとや?」
「っし、知らん!忘れろ!」
ぱっと体を離してベッドへ逃げ込み、頭から布団をかぶる。
「ちょ、雅治!どういうことね?出てきなっせ〜!!」
「あーもううっさい!ほっとけ!!」
くるまった身体を左右に揺さぶられながら、迂闊な発言を悔やむ。こんなことなら帰宅直後ではなく何か口に入れてからすればよかったと思うが、何せ初めてでそこまで頭が回らなかったのだ。どうやら激しい運動でエネルギーを使い切ってしまったらしい。食が細いからといって油断した。
「あ!!雅治もしかして、かんちょ、うおっ!?」
「ッ、それ以上言ったら殺す!!」
無駄に大きな千歳の声に、気付けば足が出ていた。それを正解ととったのか、千歳はなぜか感極まった顔をして飛びついてくる。
「うわっ!?なんじゃ、苦しい!」
「水くさかよ雅治ー!!なして言ってくれんね!?どおりでちんちんにうんこばついとらんわけばい!」
「おっまえ、もうちょい違う言い方できんのか!」
直接的すぎる言い方に頭をはたいても悪びれる様子もなく、それどころか抱きしめる力は強くなるばかりだ。
「全部ひとりでしとったと?あーもう、やばい。そういうこつならなして言わんね!?次は絶対俺が手伝っちゃるけんね!」
「死んでもイヤじゃ!!ていうか、何でそんな嬉しそうなんよ!」
「好きばい、ほんなこつ好いとうよ、雅治!」
何を言っても柳に風だ。テンションが上がった千歳は早速部屋探しをしようだとか、引越しはいつにしようだとか、これまでになく弾んだ声で布団ごと強く俺を抱き締めている。
「あーもう離せって、ちょっとは人の話聞きんしゃい!」
部屋探しよりも引越しの日取りを決めるよりも、先にするべきことがある。こうなったらかき消されて聞こえていなかった告白は、まだまだおあずけだ。再三の呼びかけの末にようやく緩んだ布団の隙間から、大きな背中を抱き締め返した。

(20110516)