その日、俺の部屋を訪れた千歳は何を言っても生返事で目を合わせることもなくてやけにそっけないなとは思っていたのだが、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。
「は…?」
「だけん、別れようっち言っとる」
っちゅうより別れてくれんね、とこちらの意見を聞くというより半ば決定事項のように告げた。
「なに、いきなり」
「別になんでもよかろ。とにかくそういうことだけん、じゃあ」
いつも身軽な千歳は今日も荷物といえばズボンのポケットで事足りる財布と携帯のみで、それだけ言うと立ち上がり玄関へ向かう。靴を履くのも下駄に足をつっかけるだけなので一瞬だ。言われた言葉を理解するには、あまりに時間が足りなさ過ぎた。情報を整理している間にあっという間に扉は閉まり、響く鉄下駄の音は階下へ遠ざかっていく。
怒ることも問いただすことも縋ることもできない、五年付き合っていたとは思えない、あまりに呆気ない終焉だった。
(……朝か)
いつもなら朝はぐずぐずと布団から出られないはずなのに、翌日はやけにすっと頭が目覚めた。早めに起きてしまった時間を利用して洗濯機をまわし、めずらしく弁当なんかを作って大学へ向かう。行きしなにそういえば合鍵を返してもらっていなかったことに気付いて電話をしたのだが、延々とコール音が続くだけでついぞ声を聞くことはなかった。
関係が終わったという実感がないからだろうか、一方的に告げられた別れの日から三日間は驚くほどいつも通りの日常を過ごした。むしろ先ほども述べたとおり、朝は自然に目が覚め夜は早めに眠り、今までより健全な生活を送るようになったと思う。 三日目の夜、変わらず一人で晩飯を食べていると、ふと目の前の空の茶碗が目に入った。裏返された茶碗と味噌汁用の漆の器、そして手付かずのハンバーグ。添えられた人参のグラッセが、滑稽なほど鮮やかだった。残り三分の一ほどとなった自分のハンバーグを箸で切り分け、口に含んで咀嚼する。タネからつくっただけあって中々美味い。もぐもぐ、ごくん。美味いのに、一口飲み込むだけでも息が詰まる。何故だろう。どうにか箸を進めて咀嚼していると、太ももの上に何かが落ちた。見ればズボンのそこの部分だけ濡れて色が濃くなっている。そうか、泣いているから喉が閉まって飲み込みづらいのか。どこか他人事のように考えて、震える手で持った茶碗から白米を掬おうとする。口元まであと少しというところで、カランカランと音を立て箸が床に落ちた。
「…ふう、ぅ、う゛、ぅぅうっ……!!」
こぼれる嗚咽に加えて、口の中の食べ物が喉に詰まってうまく呼吸ができない。噎せて苦しい。つらい。心臓が、痛い。そうか、千歳はもう二度とうちには来ないんだという事実が、今になってやっと追いついてきた。いくら毎日飯を用意しても手が付けられることはない。二人分用意して、綺麗にまるまる一人分残った手付かずの冷え切った料理を自分でゴミ箱に捨てるだけ。別れるとは、そういうことなのだ。本当は今すぐにでも声をあげて子供のように泣きたかったが、こんな時すらもアパートの薄い壁、世間体やちっぽけなプライドを気にして声を殺して泣いている自分がたまらなく惨めだった。

それから一晩中泣き明かし、学校は休んだ。人間一度悲しみの蓋が空いてしまうと、いつまででも泣き続けられることを知った。ひとりきりの部屋で毛布にくるまり、ズズッと鼻をすする。オナニーも何もしていないのに部屋は一面ティッシュだらけだ。ボーッと一点を見つめていると、何を考えなくとも今までの思い出が蘇ってくる。中三で出会い、初めてアドレスを交換した時のこと。しばらくはずっといい友人で、それなのにどこか物足りないよくわからない感情をもてあましていたところで千歳から告白されたこと。高一の長期休暇を使い大阪のアパートへ遊びに行って、初めて体を重ねた。千歳が大学で上京してきてからも含めると、共に過ごした時間の記憶はそれこそ数限りなくあった。頭の中だけじゃない。洗面所にはお泊り用の歯ブラシ、タンスには数着の着替え、冷蔵庫にはジブリのマグネット。この部屋のそこかしこに千歳の欠片が散らばっている。終わっても簡単には捨てられないそれらに、またじわりと涙が滲んだ。
(…なんで、こげなことになったんじゃろ)
何だかんだ上手くやれていると思っていたのだが、そう思っていたのは自分だけだったのだろうか。今まで自分は千歳にどういう態度をとっていたか思い出してみる。叩いたり、調子に乗ってわがままを沢山言ったのが悪かったのだろうか、もしかしたら千歳はそんな俺に内心ずっとうんざりしていたのかもしれない。ありえない話ではない。思い出を遡ると、あの時ああ言えばよかった、ああすれば結果は変わっていたかもしれないという自己嫌悪と後悔の例は後を絶たなかった。どうやら俺は、自分で思っていたより遥かに千歳のことが好きだったらしい
泣きながら知らない間に眠ってしまったらしく、目を覚ましたのは翌日の昼頃だった。鼻はひりついてぽってりとまぶたが重く、到底人と会える顔ではないが学校はどうせ今日も休むつもりだったのでなんら問題はない。座ったまま寝ていたので体の節々が痛み、そのままころりと横になった。壁にかけられたカレンダーが目に入る。まさかこんなことになるなんて、誰が予想しただろう。大学の軽い付き合いの友人はおろか中学時代のチームメイトらの誘いも断り、柄にもなく心を踊らせていたのに。こんな絶望で迎えた誕生日は人生で初めてだ。
いっそもう一度眠るかと瞳を閉じると同時に、玄関のチャイムが鳴った。ほんの数メートル先の出来事なのに、どこか遠い世界の響きに聞こえる。自分の殻にもぐってしまった以上応対する気にはなれず、どうせ一人暮らし狙いの宗教か新聞の勧誘だろうと放置する。しかし来訪者は再度チャイムを鳴らすどころか、鬼気迫る勢いを感じさせる激しさでボタンを連打した。室内に異常なまでのチャイム音が響き渡り、ここまでくるとちょっとしたホラーだ。スルーを決め込もうと思っていたがこれには流石に我慢ならず、重い体を起こし玄関へと向かう。なにもかもがどうでもいい今なら、カルト宗教にでも入信してしまいそうだ。
「はい…ぅわっ!?」
カギを開け手前にノブをひくと、どうやら壁に重たいものがもたれかかっていたらしく室内に一気になだれ込んできた。受け止めきれず尻餅をつく。
「ちょ、なっ」
なんなんじゃ一体、と続けようとした声が途切れる。というのも、今俺の上に倒れ込んでいるのはまぎれもなく人間で、それも俺をこんな状態にたらしめた張本人だったからだ。
「は……千歳…?」
呼んでも返ってくる言葉はない。巨体の下敷きになった体勢をどうにか持ちなおし顔を覗きこむと、その額には大量の脂汗が滲んでいた。
「な、なんなんじゃ、これ」
おかしいのはそれだけではない。衣服は丈が全く足りていないつんつるてんのパジャマと、裸足の片足に薄いスリッパをつっかけただけ。もう片方の足は太いギブスで覆われていた。 全く事情が飲み込めないが、このままにしておけないことだけは確かだ。それまでの世界のどん底にいたかのような気持ちも吹き飛び、俺は急いで119番をした。

「…で、俺んち戻ろうとしたらトラックに轢かれたっちゅうんか」
「いや〜、ほんなこつ死ぬかと思ったばい」
あれから救急車は運良くすぐに到着し、奇しくも脱走した病院に再度搬送された千歳は目を覚ますとのほほんと笑った。ベッド横の丸椅子に腰掛けた体がぶるぶると震える。
「おっまえ…いい加減にせえよ!!」
「い、いや、過失はあっちにあるけん、入院費も退院後の通院費も全部面倒見てくれるっち」
「そんなん言っとるんと違うわ!」
聞けば、別れるだの云々は初めから全て俺の誕生日を演出するためのドッキリだったのだという。別れを告げたあの日、言ったはいいがやはりフリだけでも辛い、というか、俺があんまりにもあっさりしすぎていたので逆に本気にとられてしまったのでは、と心配になって踵を返したところ、角から出てきた大型トラックに轢かれたらしい。携帯が繋がらなかったのも、事故にあった際文字通り木っ端微塵になってしまったからだそうだ。
「う……確かに、今回はやりすぎたと…俺が悪かったばい。もう二度と、冗談でも別れるげな言わんけん、許してほしかよ…」
眉を下げ、情けない顔で窺いを立てる千歳に、こちらが泣きたくなってくる。
「〜〜ッ!!じゃから、そういうことやなくてっ…!」
どうしてわからないのだろう。伝わらない気持ちが悔しくて唇を噛んだ。右の手足はどちらも骨折しているらしく、頑丈なギブスで痛々しく固定されている。頭には包帯が巻かれ、頬には大きなガーゼが張られていた。こんな満身創痍の状態で病院を抜け出すなんて、自殺行為以外の何者でもない。
当の本人は未だに俺を気遣った顔で首をかしげていて、それを見ると出しきったと思っていたはずの涙がまたぽろりと零れた。瞬きをするごとにぱた、ぱたとシーツに落ちて染みを作る。両手で強く千歳の左手を握った。あたたかい。部屋で一人で泣いていた時とは違う涙が頬を滑る。
「…っも、無茶せんで…!!」
縮こまって痛む喉から絞り出した声に、千歳はぱち、と目を見開いた。あと少し何かがずれていたら、俺はここで冷たくなった手を握っていたかもしれない。運良く助かった命を自ら棒に振りかねない無謀な行いに背筋が冷える。
「あー…すまん、泣かせるつもりはなかったとよ…ただ、目ぇ覚ましてすぐ行かないけんち思ったけん」
バツの悪い声ののち、俺の手を握り返した千歳は屈託の無い顔で笑う。
「誕生日おめでとう、雅治」
今度は俺が目を丸くする番だった。今日が自分の誕生日だなんてこと、すっかり忘れていた。
「おまえ」
「ギリギリセーフっちゃろ?ちゃんとプレゼントも買ってあるけん、早く退院して渡したかぁ」
にぎにぎと、あやすように俺の手を握る。なんだかこれでは、俺一人取り乱しているようではないか。
「〜〜ッ…!そんなんいらんわ!!」
「あだっ!!いっ、ちち……雅治?」
「っほ、ほんまにきらわれたかと、思っ…!」
ほぼ頭突きの勢いで千歳の腹に顔を埋めたまま、持ちあげることができない。馬鹿だ。そんな一言を伝えるためだけに瀕死の状態で病院を抜け出した千歳も、千歳が生死の境を彷徨っている間に何も知らず、信じようともせず部屋でメソメソ泣いていた俺も。とんでもない大馬鹿野郎だ。家を飛び出したままでボサボサの髪の毛を優しく梳かされる。
「…な、俺が言えるこつやなかばってん、なしてそぎゃん思ったと?」
千歳は自分なりに、ドッキリ程度では気持ちを疑わないくらいの愛情表現はしてきたつもりだと言う。数拍置いて心情を吐露すれば、弾かれたように吹き出した。
「なっ…何で笑うんじゃ!!」
「あはは!いやすまん、そうか…わがままで、自分勝手で、すぐ手や足が出ると…間違いなかねぇ」
千歳は楽しそうに喉を鳴らすと、優しく目を細めてこちらに向き直る。
「ばってん俺は、雅治がたぶん自分で嫌っとるようなところば、どうしようもなく好いとるよ」
不細工に腫れた俺の瞼を、武骨な指が愛しげになぞる。
「こげにむぞか子は他におらんばい。…ほんなこつ、好いとうとしか言えん」
嬉しそうな泣きそうな、困ったな、と言いたげな顔で千歳は笑った。その後目を瞑って「ん」とわずかに唇を突き出している。ベッドに縫いとめられて動けないため、キスを強請っているのだ。
「…っ〜調子にのるなっ!」
「んむう!?」
手のひらを勢い良く唇に押し付ける。鼻ごと軽く押しつぶされて間抜けな声が漏れた。
「ちょ、なして!?今たいぎゃよか雰囲気だったばい、せっかく個室なんだけんよかろー!?」
「うっさい、ここでキスしたらお前絶対ヤりだすじゃろ!!これ以上悪化したらどうすんじゃ!」
「俺丈夫やけん心配なか!!」
ヤりだすというのは否定しないのか。
「ダメじゃ!寝巻のままで来てしもたし、今日はもう帰る。明日荷物持ってくるきに何か欲しいものあれば…っと、携帯壊れとるんじゃったな。適当に詰めてくるきに文句言うんじゃなかよ、じゃあな」
「え?ちょ、雅治っ、雅治ー!?」
ぎゃいぎゃいと叫ぶ声を尻目に病室を後にする。部屋を出てすぐの廊下ですれ違った看護師が意味深そうな顔で会釈してきた。まあ、救急搬送されてきた大男が突如脱走し、帰ってきたと思えばおまけにもう一人寝巻で泣き顔の男がくっついてきたのだからそりゃあ何事だと勘ぐってしまうだろう。
ロビーから外に出てタクシーを拾う。行き先を告げ発進した車内で、千歳の怪我の具合を思い返した。特に後遺症もなく元気そうでよかったが、あの様子だといくらあいつがタフだといってもこれからしばらくは見舞いで通い詰めになるだろう。
「ったく…本当に、とんでもない誕生日じゃな」
どうやら俺たちは、まだまだ離れられそうにないらしい。未だ唇の感触が残る左の手のひらにそっとくちづけた。約一週間ぶりに笑った気がする。本当に最低最悪で、最高の誕生日だ。

(20111204)