帰宅ラッシュ前の車内には、人は殆ど乗っていなかった。長い座席の真ん中に並んで座り、俺達だけを拾った電車は走りだす。
「都会ち言うても、こん時間はほんなこつ空いとっとねえ。貸切んごた」
ざっと見たところ、俺達以外で同じ車両に乗っているのは優先座席に座っている老人ただ一人だ。
「まあ、これ各停じゃしの」
ほぼ毎日乗っているからだろうか、仁王は「俺も普段なら快速乗っとるし」と何の感慨もなさそうに言った。
「へえ〜……」
未だ関西の路線すらままならない俺が、東京の路線に詳しいわけがない。関西とは微妙に異なる座席のシートや、窓の外の見慣れぬ光景はとても新鮮だった。神奈川を走るなんたら線に乗り込んだ俺達は、今から仁王の家へ向かう。今日は彼の実家にお泊りだ。
「こっから雅治んちまで、どんくらいかかっと?」
二人の間で、大きさの違う手のひらが重なっている。
「ん〜……駅からの歩きも入れて、だいたい一時間くらいか?なに、お前電車とか酔うん?」
「ううん、大丈夫。聞いてみただけばい」
一時間ということは、じゃああと三十分くらいは二人で電車に揺られていられるだろう。酔うどころかむしろありがたいくらいだ。今はゆっくり走る電車と、うなじに当たる夕陽の温度がとても心地よかったから。
「……なに?」
隣に座る仁王のしっぽを、うなじが見えるように片側に寄せると、彼は少し首を傾げた。俺は何も言わず、朱く染まったうなじに笑顔で応えた。
「なんか、緊張すっばい」
「なにが?」
「雅治んち行くん」
「なんで。さっきもう来たじゃろが」
たしかに、東京に昼前に到着してから、迎えに来てくれていた彼と俺の荷物を置きに、先に仁王の家を一度訪れていた。一応母親への挨拶もその時に済ましてはいる。
「ばってんすぐ引っ張り出されたけんちゃんと話もできんかったし……お父さんとのメシとか、緊張すっとねえ」
「……お前、意外と肝がちっちゃいのう」
大げさに肩をすくめる俺を見て、呆れたように笑った。
「安心しんしゃい。オトンは仕事でいっつも遅いきに、たぶん俺らと一緒にはメシとらんよ。てか言ったら俺ん部屋持ってきてもらえるきに、テーブル出して二人で食おう」
こないだ部屋にやっとテレビがきたんじゃ、と嬉しそうに言った。
「そげなんよかと?」
「ええよべつに、うち放任じゃし。あ、ただ風呂ん後はリビングのソファでアイス食べるんが定番じゃき、そんときだけはオカンらに何か話しかけられるかもしれんけどな」
「もちろんよかばい!」
「そんで、うちあんま菓子とかないから、夜腹減ったらコンビニ行こう。途中でおもろい遊具がある公園があるんよ。たまに猫もおるし」
「おお、よかねえ。楽しみばい」
アナウンスで、聞き慣れない駅名が薄いBGMのように響く。二人の影が、朱色の車内に長く濃く伸びていた。うなじに当たる熱が強くなったのを感じ、視線を窓の外に向ける。
「わ…!」
そこに広がっているのが、河か海かはわからない。しかし水平線の向こう側、沈んでいく蜃気楼のような夕陽に照らされて、水面は眩く煌々と輝いていた。
「綺麗かねえー…」
見惚れるような声につられて、仁王も俺と向き合うように体の向きを変え視線を外へ向けた。風景はゆっくりと流れていく。景色の綺麗さと言えば、ひとつ思い出すことがあった。
「そういや俺は行ったこつなかばってん、みなとみらい?の夜景ばたいぎゃ綺麗っち聞いたばい。雅治は行ったことあっと?」
一回一緒に見てみたかねえ、と言えば仁王は唇をとがらせた。
「俺は昔家族でドライブ行った時にあるけど……なんじゃ、じゃあ今日行ってくりゃよかったな」
「んん、別にそげに急ぎでもなかけん、また今度でよかよ。そぎゃん夜までいたら帰りが遅くなってしまうばい」
彼の家族に対して心象が悪くならないように、せっかく夕方で遊びを切り上げたのだ。冗談めかして笑ったつもりだったが、仁王はぽつりと言った。
「だって、俺達もいつまで一緒におるかわからんじゃろ」
小さなアナウンスがまた、どこかの駅名を告げた。見つめ合う仁王の白い顔が未だ夕陽色に染まっている。仁王から見れば俺もそうなのだろう。
「……なして、そう思うと?」
今の言葉を詰問するつもりもなければ、気分を害したわけでもない。仁王の突拍子のない発言はいつものことだ。迷子の子どもに話しかけるように、そっと目を細めた。
「……別に。理由なんてないけど、いつかは終わるんじゃし」
体の向きを正し「ずっとなんてないし、そんなもんじゃろ」と無機質に言葉を紡ぐ。少しだけ彼の横顔を見つめていたが、俺も正面へと視線を戻した。
「そげなんわからんばい」
仁王は何も言わなかった。
彼はたまに、こういったことを言って俺を試そうとする。こうして繋いだ手が離れる時が来ると信じて疑わないくせに、二律背反の副音声を潜ませた言葉を口にするのだ。人を不安にさせて安心を得ようとするだなんて、はたから見れば滑稽な話だ。恋は盲目とはよく言ったものだが、俺は付き合って初めて知った仁王のこうしたところを女々しいと思うし、卑怯だとすら思っている。
「……確かに、先んこつはいっちょんわからん」
いつのまにか老人はいなくなり、車内には俺達しかいなくなっていた。
「ばってん明日の俺が雅治んこつを好きで、あさっての俺も雅治んこつを好きで、そうやって毎日過ごして、気付いたらじいちゃんになっとったら、それでいいと思わん?」
仁王は変わらず目を伏せたままだ。なんとなく、彼の考えていることがわかって自然と頬がほころぶ。繋いだ手を握り直して、少し低い位置にある白い頭に唇を寄せた。
「決めた。みなとみらいば行くんは歳とって、じじいになって、ほんなこつあと数時間で死ぬ…って時にすったい。それまで、絶対誰とも行かん。お前と綺麗な夜景見て、綺麗かねっち沢山言って、そんで死ぬこつにするばい」
おとなになるのはきっと、そんなに怖いことではない。
窓の外の景色はゆっくりと流れていく。浮いていた仁王の指が応えるように少しだけ動いて、俺の手の甲に触れた。
「……つぎ」
しばらく何も言わず寄り添っていると、流れたアナウンスに口を開く。
「ん、一緒に降りような」
ホームに降りて、改札を通って、街を歩き出す。「いつまで握っとるんじゃ」と怒られるまでは、この手を離さないでいよう。
恋は盲目というが、あれは嘘だ。俺は今までの経験ゆえかわりとリアリストなので、ありえない希望を持つこともなければ極端に悲観的になることもない。我ながら老成していると感じる。だからこそ、意外にセンチメンタルでナイーブな一面を持つ仁王を女々しいと思うし、卑怯だとも思う。けれどそんな面を見せつけられて尚彼と一緒にいようとする理由なんて、ひとつしかないのだ。
本当は、俺には未来だって見えている。その未来から少しでも逸れようものなら、俺はきっとどんな手を使ってでも彼を取り戻し、何度だって俺の思う『あるべき形』へと修正していくだろう。その日までこのくるおしいほどの感情は寝たふりを続けるのだ。だって少しだけ不安にさせて好きな人の気を引きたいのは、俺だって同じなのだから。
(20120319)