恋し愛はこれから




 誰が持ってきたかは忘れたが、部室の壁に掛けられたくたびれたカレンダーが七月に突入し本格的に太陽が肌を焦がし始めた頃。丁度期末テスト期間に入り全部活動が停止されたことは俺にとって非常に幸運だった。代わりに取り組まなければならない勉強そのものは心躍るものではないが、そこは同じクラスの白石と勉強会と言う名の教え合いをすれば互いの苦手強化を補えたし、何より勉強に打ち込んでいる間は余計なことを考えずに済むというのが大きい。テストの間はもちろん朝練も無いのでギリギリまで惰眠を貪り、学校が終われば白石とだべりながらどちらかの家で教科書を開くという機械的な生活は俺の心に安定をもたらしていた。白石が、すまないが今日は用事があるから急いで帰らないといけないと終わりのホームルームが終わるや否や教室から飛び出したその日までは。自分も早々に帰宅してもよかったが、家に帰ったところでひとりで勉強に集中できるとは到底思えない。それならばできるところまでこのまま残って、疲れきって帰った方がすぐに眠れるだろうとそう踏んで、誰もいない教室でひとりシャーペンを走らせることを決めた。
 次にふう、と息をついた頃には、教室全体が夕陽で真っ赤に染まっていて、携帯で時間を確認してみると、もう絶対下校の時間に近かった。そろそろ切り上げて帰ろうかと手早く荷物をまとめて教室を出る。むわりと舐めるようにまとわりつく生ぬるい空気を駆け抜けそのまま玄関へと向かえばよかったのに、一瞬だけ地面に縫い付けられた俺の足は気が付けば他の場所へ歩みを進めていた。普段はあまり訪れることはなく、それでも部室や自分の教室以外では最も足を運んでいる場所。二年七組、と書かれたプレートを確認し、その引き戸に手をかける。ひとつ深呼吸をして、ここまで来たくせに、もう誰もいなくて鍵がかかっていればいいのにという裏腹な願いを込めてゆっくり扉を引くと、後ろめたさが表れた控えめな力にふさわしく、ガラ、ガラと小さく鈍い音を出してそれは動いた。そうして開かれた扉の向こうには、規則的に並べられた数十組の机のがらんどうな光景。そして、そのひとつに突っ伏している見慣れた黒髪があった。
 ああ、やっぱり来んかったらよかった、と思う。なんだか鼻の奥がツンとする。ここで何もなかったように踵を返せばよかったのに、身体の中からねぶるような暑さにやられてしまったに違いない。スピードスターと呼ばれるにはおかしいほどゆっくりと、自分の足は彼の元へと引き寄せられていく。
「ざ、いぜん」
 赤い夕陽が長さの違う二人分の影を作る。すうすうと寝息をたてて眠る彼の傍らに立ち口にした名前は、自分で思ったより弱々しく掠れていた。俺はこの後輩、財前光に、恋をしていた。
 いつから好きだったのかと問われればはっきりとは答えられないが、自分の気持ちに気が付いたのはここ最近のことだ。あの少し気だるげな声で謙也さん、と名前を呼ばれると嬉しいし、元々淡白な方であるがメールの返信がないと悲しくなる。遊びに誘えば悪態をつきながらも付き合ってくれるし、たまに、本当にごくたまに、呆れたように優しく笑ってくれるその顔を見るだけで全身が熱く胸がいっぱいになる。悲しいかなこれを恋と解らないほど俺は馬鹿ではなかったので、彼へと向かうこの感情の名前を認識してしまってからは、もう以前のように軽々しく肩を組んだりからかって頭を撫でたりというようなスキンシップはとれなくなっていた。それどころか、以前の自分はどうしてあんなに自然に彼と触れあうことが出来ていたのだろうと疑問に思うくらいだ。そして傍から見れば、後輩としてよく財前を可愛がっていた俺が彼を避けているのではないかと思われそうな態度を取っていた矢先に訪れたのが、このテスト期間だった。
(一週間ぶり、くらいか)
朝の登校も時間がかち合わないように遅刻ギリギリで駆け込み、下校時もおしゃべりに夢中で周りが見えていないふりをしてそそくさと帰る。(財前は先輩二人が話しているところにわざわざ割り込んでくるほど積極的な性格ではない)そうして自ら徹底して彼を避けてきたくせに、今になっているかいないかもわからない教室を訪れて自分は何がしたいのだろう。  ゆっくりと膝を折り、同じ目線で彼を見つめる。ピアスまみれの耳も、俺のそれとは正反対の無駄に艶のある黒髪も、白いカッターシャツから伸びる細めの長い腕も、当然ながら何も変わっていない。そして彼を形づくるひとつひとつを改めて眺めていると、やっぱり好きだなぁなんてしみじみ思えてきてしまうのだから始末に負えない。所詮叶わぬ恋だ、すぐに想いを断ち切ることは出来なくとも、このテスト期間が終わるまでには以前のように気のいい先輩後輩と呼ばれるほどには自分の心を言い聞かせなければならない。これ以上感情を膨らませてはもう手に負えなくなるのは火を見るより明らかだった。
 こんな時、自分の親友ならば上手くやるのだろうか。彼なら自分の気持ちを押し殺して、相手とつかず離れずの関係を保つ程度のことは難なくやってみせるだろう。いや、それどころかむしろ同姓だとか関係なく相手に受け入れてもらえるかもしれない。自分の親友は親友の贔屓目なしに見ても、それくらい魅力的な人物だった。それに比べて自分は、と卑屈な気持ちになり泣きたくなる。
 そんな陰欝な気分で見つめた眼前の寝顔は、大人ぶった普段の姿よりずっとあどけなくて、幼くて、可愛かった。黒々としたまつげに、筋の通った鼻に、薄く開かれたくちびる。流れた前髪からちらりと覗くしろい額にはじわりと汗が滲んでいて、無意識に喉が鳴った。机の上で枕にされている腕の先、ゆるく握られたてのひらに自分のそれを絡めれば、しっとりと触れ合った指先が妙に馴染む。思えば、これは自然の流れだった。引き寄せられるように彼に近付けば、その身体の一部に手を伸ばす。そうすれば今度はもっと密な部分に触れたくなるのは当然のことだ。
(あ、落ちる)
重ねたてのひらをきゅっと握ったのと同時に気が付けば、浮かんだ汗の粒を押しつぶすように、俺はその額へとくちづけていた。
 蒸気する頬の熱さを感じながら、あせ、しょっぱいなどと当たり前のことを考えていると、見開かれた目と目が合う。え?と思った時にはもう遅かった。
「……謙也、さん?」
 まさに呆然、といった様子で紡がれた自分の名は、冷水をぶっかけられたように頭に響いた。寝起きのけだるさなど微塵も感じさせない程まっすぐ向けられた瞳にやってしまった、とか、もう終わりや、とか、そんな言葉がないまぜになってぐわんぐわんと頭の中に響いた瞬間、俺は片手で口元を覆い、恐らく自分史上最速で教室を飛び出していた。
(っ!やってもたっ!!どうしよ、これから、部活っ!!)
 後ろから自分を呼ぶ声がするが構っていられない。転がるように階段を駆け下りるのと同時に、今までの思い出が音を立てて崩れていく。最悪だ。感情を押し殺して付き合っていこうと決めた矢先、その可能性すらも自らの手で粉々に砕いてしまった。これでは仲のいい先輩後輩どころか、もう二度と口も聞いてくれないかもしれない。ましてや一緒にテニスなんて、もう――
 ほんの出来心に対する余りの代償に思わず視界が滲んだ瞬間、背後で風船が破裂するような凄まじい音がした。それに驚く暇もなく、今度はすごい力で肩を掴まれ無理矢理体を反転させられる。その瞬間目に映ったのは、今までにないくらい鬼気迫った顔をしている想い人で
(っコイツ、階段飛び降り…?!)
痛むほど強く掴まれた両肩が引き寄せられ強制的に向かい合う顔の、先程まで食い入るように眺めていたパーツに自分の行為を否が応でも思い出し、反射で目をつぶってしまう。そして次の瞬間俺を襲ったのは、鈍器を床に落としたような鈍い音と、頭蓋骨を通り越して脳まで揺らすような激しい衝撃だった。
「〜〜っ?!」
 咄嗟に歯を食いしばった為舌は噛まなかったが、余りの痛みに踊り場の壁にもたれるようにしゃがみこむ。それを逃がさないと言わんばかりに覆いかぶさってくるソイツを見上げて、思わず声を上げた。
「何すんねんこのボケェ!!」
正直これは寝込みを襲われ、額と言えども勝手にキスされた財前のセリフだとは思うが、この強烈すぎる頭突きに対して、自分の行為を棚上げして文句を言わなければやってられなかった。つまりはそれ程までに痛かった。財前はそんな俺の両腕を壁に縫い付けて叫ぶ。
「こうでもせんと、俺があんたに追いつける訳ないやんけ!!」
絞り出すように発せられたそれは、悲痛と言ってもよかった。行為を責められ言葉汚なになじられると思っていた為予想外の声色に目を見開くと、財前は手首を握る腕に更に力を込める。
「ほんま、何なんすかあんた!馴れ馴れしく近づいてきたと思ったら今度は俺のこと避け始めるし、そうかと思ったらさっきみたいなことしてくるし!!もうワケ解らんわ!!」
 それは普段の財前からは考えられない程激情的な、溜まりにたまった感情の爆発だった。そして額の痛みに加えて今後の未来が絶望に染まった俺も泣きそうだったが、このままにしていたらそれより先に財前が泣いてしまいそうだと思った。せめて両手が自由なら、その背中に回して撫でてやることができるのに。何が何だかわからないが自分のせいで彼をここまで追い込んでしまったことは確かで、そうなると彼への誠意を持って自分に出来ることはたったひとつしかない。財前だけじゃなく俺もまた、限界だった。
「……っす、き…すきや……ごめ、おれ」
財前のこと、すきやねん。
 何だかんだ言って結局、先に泣いたのは俺だった。ごめんと好きを交互に口にしながら、俺は泣いていた。両腕が使えない為こぼれた涙は俺の頬にいくつも筋をつくり、見るに堪えない顔を晒している羞恥もあったがその半面、しっとりとした手に強く掴まれた腕が一生離されなければいいのに、なんて都合のいいことも考えていた。
「…なんで、謝るんすか」
そう問う財前の声は低い。ああ、また怒らせてしまった。日頃からお前は空気が読めないと散々言われているが、どうして俺はこうなのだろう。
「っ…!やって、キモいやん…そんなん嫌やろ…?おれ、ホモ、やで」
 うなだれながら口にした言葉がブーメランのごとく自分に突き刺さり、また涙が出る。もう幸せな思い出も未来も、何もかもどうでもいい。俺は余りの醜態に、今すぐ家に帰って思い切り泣ければそれでよかった。
「…謙也さん、ホモやから俺のこと好きになったんすか?」
そんなグラグラな精神状態で聞こえた言葉に、俺は完全に切れた。
「んなわけあるかい!!俺かてホンマはかわええ女の子が好きやと思っとったけど!てか今も思っとるけど!!なんでかわからんけど口は悪いし生意気やし無邪気どころか邪気しかないようなお前に惚れてもうたから困っとるんやないか!!」
半ばヤケになって叫んだ言葉に対し、財前はさっき俺がしたみたいに、指と指を貝殻みたいに繋ぎ直してこともなげに言った。
「ほんなら、ええやないですか。俺も先輩の癖にどっかヌけてて、アホみたいにヘラヘラして、見た目も中身もヒヨコみたいな頭しとるあんたに惚れてもうたんですから」
さっきまでの切羽詰まった様子はどこへやら、これまた奇遇ですねとでも言いたげに放たれたその言葉は、俺の涙を引っこませるには十分すぎた。そして、おまえ!と出かかった言葉もすぐさま喉に貼りつくことになる。
「…やから、好きです。謙也さん」
 その瞬間、世界中の時が止まる。そこには大好きなあの表情の、更に百倍は胸を締め付けるような優しい瞳があった。そしてその中には確かに、頬を濡らして間抜けに口を開けている俺がいた。
「…っ!」
 ほんまに?嘘やろ?なんて疑うより先に、それまで姿を消していたいとしさが、思い出したように津波となって押し寄せる。気が付けば両腕でぎゅうぎゅうと財前の首に抱きついていた。
「財前…ざいぜん、財前財前ざいぜん…っ!!」
「…そんな呼ばんでも、聞こえてますけど」
おかしな人、と呆れたように抱きしめ返してくれる声がどこか優しく聞こえたのは、きっと勘違いではない。前言撤回だ。彼を思い切り抱きしめる為に、この両腕はいつも自由でなくては困る。だってこの顔を自分だけに、たくさんたくさん見せてほしい。財前を、ひとりじめしたい。
「すきやぁーー…!」
音も立てずに死にゆく恋ではなかった、許されるはずのなかった気持ちを言葉にできる喜びに顔をぐりぐりと肩口に擦り付けていると、はいはいなんて軽く頭を叩かれる。
「人の服で鼻水拭かんとってくださいよ」
「拭いてないわ!」
ぶっちゃけちょっとついてしまったとは思うけど。先ほどまでのそれらしい雰囲気はいつの間に霧散してしまったのか、いつものようなアホなやりとりをしながら俺はあることを思いつく。
「…なあ、仕切り直ししん?」
「は?」
 窺うように顔を上げて問えば、最初はきょとんした様子でもすぐにああ、と察した様子でくちびるをなぞられる。擦れる指が、なんだかこそばゆい。
「こっちっスか?」
「〜〜っ!お前、やっぱり気付いとったな!!」
確信的な表情に、ハメられたと怒るべきか結果オーライだと喜ぶべきかはわからないが、とりあえず自分がとんでもなく恥ずかしいことには変わりない。
「やって俺、謙也さんに絶対好かれてるって思うほどジカジョーちゃうし。それにせっかく起きてもいきなり逃げられてなんや腹立っとったから、気付いたら頭出てましたわ」
ま、しゃーないっすよね。目の前の悪童は悪びれることなくけろりと言った。
「なんか軽く言っとるけど、あれめっちゃ痛かってんからな!」
「そんなん俺も同じやから痛み分けっすわ。…それよりヘタレな謙也さんが口やなくデコにしてくれたおかげで、俺のくちびるまだ処女やねんけど」
ヘタレな、の部分で未だにジンジン痛む俺の額をデコピンした財前は、どうします?なんて意地の悪い顔で笑っている。
「…アホ。そんなん決まっとるやろ」
重ねたてのひらをもう一度握る。どちらともなく近づけたくちびるが重なるまで、あと一秒もいらない。

(20110517)