ガランガラン。暗い夜の路地裏に鉄下駄の音が響く。ザルなので酔っているわけではないが人ごみに疲れたのか、どこか倦怠感を感じる重い体にひとつため息をついた。まだ東京には慣れない。
大学進学を機に上京してかれこれ半年、今まで同様気ままな一人暮らしの日々を過ごすだけだと思っていたが、これがなかなかどうして上手くいっているとは言い難かった。人間関係に苦労したり犯罪に巻き込まれたりと何か目立った問題があるわけではない。ただなんとなく、息をしづらい。今日も今日とて大阪から上京してきてまだこちらのことをよく知らないだろう俺の為にと大学の学友たちが歓迎会なんぞを開いてくれたわけだが、まあ正直それにかこつけてただ飲みたかっただけだろう。
揚々と二次会へ繰り出した友人たち(と呼ぶべきかも定かではない)と早々に別れた俺は、ひとり駅へと歩く。大学生御用達のチェーン居酒屋から出てそのまま夜の繁華街を通る気分にはなれず、適当な路地裏に入り込んだ。道の端に置かれたポリバケツのゴミ箱からは入りきらなかったゴミが溢れているし、すぐ後ろの繁華街のきらびやかな、悪く言えばいやらしい程の量のネオンを少し貸してくれないかと言いたくなる程に暗い。まさに文字通り明暗が分かたれたそれは右目がほぼ見えない俺にとってけして親切な状況ではなかったが、歩けば人にぶつかるような混みいった道を通って家路を急ぐよりはよっぽど気楽だ。暗がりに自分の視力もあいまって、数メートル先もぼんやりとしか見えないままゆったりと歩みを進める。アスファルトに反響する金属音を聞きながら、ここまで来てこの道はちゃんと駅まで続いているのだろうか?と少々の疑問を抱く。しかし繋がっていないなら辿りつけるまでのんびり散歩を続けるまでだ。遅くなったら明日は自主休講にしよう、と我ながら自分に甘い決断を下して空を見上げた。
(…星ば見えん)
立ち並ぶビルの隙間から覗く切り取られた狭い空は、黒い画用紙が貼りつけられたように平面的で何の感慨も与えなかった。別に田舎から出てきたばかりでもない。故郷である熊本の空(特に実家は父の職業柄少し辺鄙なところにある)は確かに星が綺麗だったが、十五で親元を離れてから高校卒業まで暮らした大阪だって、大してここと変わらなかったではないか。それをああだのこうだのと考えたことなどなかったのに、どうして今はこんなにも感傷的な気分になるのだろう。一体あの頃と、何が変わったというのだろう。何も答えてはくれない暗い空を見上げ一人立ち尽くしていると、胸のあたりにどんっと衝撃が走った。
「ぅわっ!?」
「すっ、すまん!急いどって」
男のものとおぼしき声、どうやら前方から走ってきた人とぶつかったらしい。こんな路地裏を駆けてくるなんてよほどこのあたりの地理を熟知しているのだろうか?少しだけよろけた体勢を整え相手の体を支えてやると、暗闇の中胸元にほのかに発光するような青白さが目に入った。
(なんね、髪の毛…?)
相手がもう一度すまんと謝って距離をとった瞬間、いつの間にかもう路地裏の出口近くまで来ていたらしい。道を抜けた先の道路を走り抜ける車のライトがその顔を照らした。
「あれ、あんた」
「お前、確か…」
車が走り抜けた一瞬しか見えなかったが、その顔は記憶にあるものだった。俺が大阪でテニスをしていた頃、その独特のプレイスタイルから当時の中学テニス界では名の知れた存在で、直接打ち合ったことはないが俺達の部長をコピーして試合したこともあるという、微妙に因縁のある人物。
「あんた確か立海の……ええと、そう」
仁王っちゃろ?徐々に暗闇に慣れた目で尋ねると少しだけ目を見開いたその顔は、間違いなく立海大の仁王雅治だった。
「お前、四天宝寺の…」
「千歳。千歳千里ばい」
まさかここへ来て彼と出会うことになろうとは夢にも思わなかった。しかし俺達は偶然の再会を喜び合うほど仲が良かったわけではないし、かと言って知らんふりするほど全くの見ず知らずというわけでもない。そんな微妙すぎる距離感をお互いが感じ取り沈黙が訪れるのは当然のことだった。
「あ〜……えっと、久しぶり?っちゃねぇ」
久しぶりも何もほぼ初対面だと自分でツッコミを入れながら、とりあえず場を取り繕う努力をしてみる。しかしヘラリと笑ってみせた先にいる仁王の顔はどこか青ざめていて、どうしたのかと聞くより早く、暗闇に慣れた目はそのいでたちを捉えた。銀糸のような髪の毛だけは当時のまま、黒い細身のスーツ上下にインナーのワインレッドのストライプシャツは胸元が大きく開けられている。いかにもすぎる格好に気を取られ、その白い喉元に落ちるシルバーネックレスを見つめて高そうだな、なんてのんきなことを考えていたらシャツの胸元をバッとかき合わせた仁王が舌打ちまじりに言った。
「ええかお前、ここで俺に会ったこと誰にも言うんやなかよ!!」
そうなかなかに鬼気迫った表情で吐き捨てながら、道幅をとっている俺の体の横をすり抜けて行こうとする。気がつくと視界から消えかけた細い肩を掴んでいた。
「ぃ…っ!何じゃ!離せ!」
「なぁ、何か秘密にせないかん理由ばあっと?」
「うっさいのう、とっとと離しんしゃい!!」
俺の手から逃れようと藻掻く仁王の姿はどこか人慣れしていない猫を彷彿とさせた。ユニセックスの香水でもつけているのだろうか、仁王が動くたびにふわりと石鹸の匂いが鼻孔をくすぐる。俺が言葉を発するのと、抵抗する爪が手の甲に食い込むのとはほぼ同時だった。
「なぁ、名前ば教えてくれんね」
「は…?」
「だけん、店ん名前」
誰にも言わんけん、と念を押すように笑ってみせると、仁王は心底嫌悪感をあらわにし顔を顰めた。ギリ、とまた手の甲に爪が食い込む。ジンジン痛むし血が滲んでいるだろうから、後で絆創膏を買って帰らないといけない。シャンプーをする時は傷口に沁みるかもしれない。けれどそこには確かに、どこか恍惚とした安堵感を覚える自分がいた。
(ああ、痛みば感じるこつすら久々な気がすっばい)
星ひとつ見えない空の下、世界中の誰も気づかないような都会のはしっこで。それが俺と仁王の再会で、そしてはじめての出会いだった。
(20110601)
2
今思えばその日の俺はことごとくついていなかった。大学では時間を間違え必修の授業に出そびれるし、帰りは帰りで電車が人身事故に巻き込まれて立ち往生。やっとの思いで帰宅し出勤まで仮眠をとろうとしたら携帯のマナーモードの解除を忘れていて、目を覚ました頃には電車に乗らなければいけない時間をもう30分も過ぎていた。急いで着替えて携帯と財布をひっつかみ家を飛び出す。駅へ着き街灯がなく見づらいので普段はほとんど使わない店への近道を駆け抜けていたときに、壁のようなそいつとぶつかった。そこから先は思い出したくもない。金と酒と一時の夢が混在する不可思議な空間、いつもどおり賑わう店内で、嫌な記憶をかき消すように目の前の酒をあおった。
「あは、ちょっと今日ペース早いんじゃないの〜?」
女はヒルに吸われたような赤い唇を歪めて笑った。来るたびに大金を落としてくれるこの太客は、たしか俺の母親とそう変わらない歳のはずだ。旦那も子供もいるだろうにこんなところで若い男にうつつを抜かして、さびしいやつだと自分のことは棚にあげて哀れんでみたりする。女はいつまで経っても女だとは誰の言葉だったか。
「そうか?いつもこんなかんじじゃろ」
「雅はすぐ顔に出るものねぇ、なにか嫌なことでもあったの?」
俺のことならなんでもわかるという口ぶりにうんざりする。しかしここでは理想の恋人になりきり夢を見せるのが俺の仕事だ。
「なに、慰めてくれるん?」
これが牛ならさぞ美味かろうたっぷり肉のついた肩に腕をまわし、下から顔を覗き込む。また口が上手いんだからとかなんとか言ってその表情はいたくご満悦といった様子で、ボーイが俺を呼びに来たのは今日はいつもより売上が上がるかもしれないと期待で胸が躍った時だった。雅さんちょっと、と小さく耳打ちする声に水をさされて気分が下がる。
「なに」
「指名なんですが、ちょっと…」
「何じゃ、はっきりせんの」
暇なのか俺の手をいじって遊んでいた女にすぐ戻るからと告げ席を立てば、ボーイはいずれのテーブルも素通りしこっちです、と店の入口まで向かっていく。何だ、出迎えか?しかし自分が知る限りの出迎えが必要な太客から今日来るとは聞いていないし、初見での指名ならまずテーブルに通されて内勤に男本を見せてもらっているはずだ。不審に思い前を歩くボーイにどういうことかと声をかければ、入口周辺にいる内勤の者数人が皆戸惑いの表情も隠さずにこちらを振り返った。
「そ、それが…この方が雅さんのお知り合いで、指名で来たと仰るんですが、その…」
どうしたものかと、とボーイは歯切れ悪く続けた。きっとその規格外の体格からどこの用心棒だと警戒して出てきたのだろう、俺に会うまで梃子でも動かないと言ったらしいそいつの対応に内勤の者もお手上げといった様子で、同時に俺も俺を見つけるやいなや「仁王!」と満面の笑みを浮かべたその顔を見て何だ今年は大殺界かと頬を引きつらせた。
「今日は割と普通な服着ちょるね」
そっちのほうが似合っとる、なんて大きなお世話だ。
「うっさいのう、あの日はお前のせいで遅刻罰金は取られるし今日は太客逃がすしで散々じゃ!責任とりんしゃい!」
「はは、それはすまんかったばい。そいにしても、ここはたいぎゃキラキラしとっとねぇ」
シャンデリアや店の調度品を見まわし「おとぎの国のごたる」などと図体に似合わずメルヘンなことを言い出したそいつにますます機嫌は下降していくばかりだ。
「…おい、まさかほんに世間話しに来たってわけでもなかろ。何が目的じゃ」
腐っても相手は客なので、サービスの焼酎を適当に注いでやりながら問う。とりあえず面倒事にしたくなかったので店には俺の知り合いということで話をつけ、初回指名扱いで端っこの小さなテーブルに通したのだが、口止め料をせびりに来たのかと聞けばそんなことは考えていないと言うし、ここで働きたいのかと聞けばまた首を振る。
「俺はただ、また仁王に会いたか思ったけん来ただけばい?だけん客として見てくれてよかよ」
今考えると、俺は一体どうしてこいつに店の名前を教えてしまったのだろうか。適当なことを言ってごまかせばよかった。しかしそんなことをしてもこいつはきっと界隈の店全てを当たってでも俺を探し出しただろうし、嘘をついてもこいつには通じないだろうなということを俺はどこか本能で感じ取っていた。
とにもかくにも男相手に「もてなしてくれんね!」と快活に笑う姿を見て、俺はいよいよとんでもない奴と関わってしまったのかもしれないと目眩がしたのだった。
(20110603)
3
「いらっしゃいませ。ご指名は…」
「雅治で!」
先日の出来事から従業員にも俺のことが伝わっているのか、案内係のボーイの顔には便宜上聞いてみただけです、と書いてあった。初回時同様はしっこのテーブルへと案内するその態度は他の女性客に対するそれに比べると愛想も礼儀もいささか劣っているが、もし自分が彼の立場ならホストクラブに足しげく通う大男相手に笑顔で愛想を振りまく気はしないだろうから無理もない。雅さんは接客中なのでしばらくお待ち頂きますがよろしいですか、と半ば決定事項を疑問形にして尋ねるボーイに了解の旨を伝えてソファーへ腰を掛けた。
俺はあくまで仁王目当てでここに通っているので、女性客にするようなヘルプ対応はいらなかった。あちらとしてもこんな奇天烈な客相手に貴重な人手を裂きたくないだろうし、万一頼んだとしても当然のことながら誰もテーブルにつきたがらないだろう。なので仁王の時間が空くまでは、目立たないテーブルでひとりちびちびと酒を飲む。これが店側との暗黙の了解になっていた。
今日も多くの男女で賑わう店内を背筋を伸ばして見回すと、大きな丸い壺に挿されたこれまた大きな花束の向こう側に、特徴的な白い頭が見えた。これはここに通いはじめて知ったことだが、どうやら仁王は幅広い年令層から人気があるらしい。先週来た際は四十代のいかにも若作りといったおばさんがいた場所に、今日はケバケバしい化粧の、おそらく俺達と同年代の若い女の子が座っていた。仁王はシャツの胸元を大きく開けた姿で、甘えて肩へもたれかかる女の子の頭をあやすようにぽんぽんと撫でている。
(んん…ああやって接客しちょるとこ見たら、ほんに違う世界の人間のごた)
自分で作った薄い水割りをちびちびと舐める。彼が席に来てくれるまで、俺はここで仁王の客層や立ち振る舞いを観察するのが常だった。
「…よう。お前さんも飽きん奴じゃな」
そんなふたりの様子を遠巻きにぼけーっと眺め、仁王が俺の隣に腰掛けたのはそれから約二十分が経った頃だった。愛想笑いもなく少し気だるそうに現れた姿に俺は微笑む。「こげなとこでひとり待たされて退屈じゃろ」という言葉には言外に来なくていいのにという意が含まれていたが、そこは見ないふりをした。
「そげんこつなかよ?こっから店ん様子見ちょるんも、なかなか楽しかもんばい」
「ふーん…お前、ほんに物好きじゃな」
まぁ金になるきに俺はかまわんけど、と呟いたそれは本心だろう。俺だって適当に座って適当に話し、例えそれがどれだけ不躾な態度であっても金がもらえる商売があるならぜひやりたい。その客が懲りずに毎度毎度足を運んでくれるのなら尚更だ。ごまかすように笑って、返す言葉もなく頬をかいた。
「にしても、仁王は人気あるっちゃねぇ」
今日だけですでにいくつのテーブルについているのだろうか。かつてはコート上の詐欺師とまで言わしめた程だ、口もうまいだろうし外見からしてモテそうだなとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。感嘆の声をあげると仁王は俺用と自分用の酒を作りながら言った。
「はぁ?人気っちゅーんはナンバー入るくらいの奴のことを言うんじゃ。それに俺は学生バイトの身じゃき、片手間にやっとるだけぜよ…それよりも」
さっきのやめんしゃい、と言われて一瞬理解に詰まる。
「ん?」
「名前。ここでは苗字で呼ばんで」
そう言うとかき混ぜていたマドラーから手を離し、内ポケットから取り出したのは名刺入れだろうか、白い指で一枚つまみぴっと渡されたそれを受け取ると、そこには黒地の背景に白文字で店の名前と電話番号、そしてメールアドレスの上には“雅治”の二文字が並んでいた。
「あれ、源氏名使っとらんと?」
「まぁな。最初はネタで比呂士とかつけちゃろかち思ったけど、流石に気が引けてやめたわ」
それに名前には魂が宿るからの、と意外にスピリチュアルな事を言う仁王に少し驚いて、なんだかまた彼の新たな一面を知った気がした。
「じゃけん、ここではそこに書いとる名前で呼びんしゃい」
「ん、わかったばい。…でもここで働いちょるこつ、誰にもバレたくなかとや?」
本名だとアシがついてしまうのでは、と疑問を抱いた俺に仁王は酒の入ったグラスを揺らしながら言った。
「木を隠すには森の中、ち言うじゃろ」
…それはなんだか、少し違う気がしなくもないが。
「そげなもん?」
「そんなもんじゃ」
すると仁王は続けて少し遠くを見て「ラーメン食いたいのう」と独り言のように言った。先程ここから見ていた様子と違い、今の仁王には笑顔も気遣いもなかったがそれでもなんだか少しだけ、心を許された気がするのはなぜだろう?チャームをとろうと動いた体からふわっと香るにおいに、はじめて出会った夜を思い出す。
俺はあの日、小さな偶然から繋がった細い糸をどうしても絶やしたくなくて、その腕を掴んだ。様子からして仁王が今の状況を知られたくないと思っているのは明らかだったし、旧知の友人にすら告げていないだろうことはカマをかければすぐにわかった。そして卑怯だとは思ったが、口止め料として店の名前を聞き出し今に至るわけだが、きっと何かしら理由があるのだろう。誰にも言えない理由が。
作ってもらった酒にひとつ口をつけ、ちらりと仁王に視線を向ける。それまでの俺は、ただはじめて会った時に感じたインスピレーションに夢を抱いたという免罪符で、この窮屈な日常から救い出してくれる期待を一方的に押し付けていただけだったのかもしれない。けれどすぐ横の、ピーナッツを食べた指を舐める飾らない姿に俺はもっともっと仁王のことを知りたいと思っている自分に気付くのだった。
(20110606)
4
ふとしたきっかけと千歳の執念で再びあいまみえることになった俺達だったが、その縁は未だに続いていた。千歳が俺の店に客として来店した日は本当にどうなることかと思ったし、会いたかったからなどと健気なことを言いつついつ本性を見せるのだと俺は気が気ではなかったが、千歳はこちらのそんな様子を気にすることもなく週に一、二度、短時間ではあるが店に顔を出した。本当は男の客など無理やり追い出すことも出来るのだが、如何せん千歳は力づくで事に及ぼうとするには並々ならぬ大男で。それ故店側は俺の意思を尊重するということで、どうせなら客として利益還元してもらおうと店への出入りを黙認している。そしてこの黙認、というのはせいぜい最初の数週間程で、最近に至ってはむしろ千歳の来店を歓迎するようになっていた。
「雅!」
「おう、今日も相変わらずうるさい図体しとるの」
「場所とってしまうんはしょんなかよ…」
最早店の端の一角は千歳専用にあてがわれているスペースと言ってもいい。少し奥に詰めるよう促して腰を落とすと、隣に座る千歳と膝が触れるか触れないかの距離だ。
「今日はちゃんと学校行ったんか?」
「うん。これ以上は流石にヤバいけんね、昼から行ったばい」
「ほんまは何限からやったん?」
「二限」
「なんじゃそれ」
ここまで足しげく通われると対応もいい加減慣れたもので、俺は千歳とだいぶ砕けた話ができるようになっていた。それに千歳は話せばなかなか面白い男で、もっと違うところで出会っていたならいい友達になれたかもしれないと思った。
(…まぁ、今の俺じゃどっちにしろ無理かの)
とにかく問題というのはひとつ解決したらまたひとつ出てくるもので、今の俺を悩ますものはまた違ったところにあった。千歳と話しながら飲んだ酒のグラスを置けば、ふと見上げた先にアイコンタクトを送ってくる店の代表が眼に入る。内心ひとつため息をついた。
「あ〜…なぁ千歳、お前、よかったらここで働かん?」
「え?」
「いや…その、お前がおってくれたら俺もここに同年代の友達できて楽しくなる、ちゅうか」
果たしていつもの口のうまさはどこへ行ってしまったのか、こういう演技になると極端におぼつかなくなるという自覚はある。歯切れ悪く告げた提案に千歳はぱちぱちとまばたきをして、笑って首を傾げた。
「それ、雅が思っとうと?」
「ば…!代表に言われたんじゃ、お前に声かけろってな」
あまり大きな声では言えないので、ボソボソと耳打ちして答える。その様子を、代表のみならず他の席にいる女の客数人が見つめていた。そう、これこそが最近の俺のもっぱらの気がかりだった。
千歳は最初こそ店の者から警戒されていたが、どうやら最近は千歳をホストと勘違いした指名や、いつも雅治の横にいる男は誰だ、という客からの問い合わせが増えているらしい。確かに千歳は上背や体格はもちろんのこと、それなりに整った精悍な顔立ちをしていたし、男らしい褐色の肌には女性に対して一度この腕に抱かれてみたい、と思わせるような何かを持っているのだろう。そして夜の世界の商売たくましい経営者がそこに目をつけないわけがなく、どうやら来店して俺を待っている間や俺がトイレで席を空けている時などに、すでに幾度か千歳をスカウトしたらしい。ここで働けばずっと俺と一緒にいられるだの何だの言って最初は少し心揺らいだらしいが、よく考えればそれぞれに対応せねばならない客ができるのだからそんな誘い文句が通用するわけもなく、あえなく断られてしまったそうだ。そうして俺に白羽の矢が立ったというわけである。
「…ま、お前が働き出してもきっと遅刻ばっかで速攻クビじゃろうな…変なこと言ってすまんかった、上には俺から言っとくぜよ」
返事も聞かずに告げた言葉は、少し矢継ぎ早だっただろうか。けれどそれに対し何を言うわけでもなく、千歳はどこか満足気な表情で微笑んでいて、俺はその顔を見てなぜか少し安堵していたのだった。
「あ、大学っていえば、雅は大学は立海行っとうと?神奈川からここまで通うんは大変っちゃねぇ」
話は変わって、思い付いたように振られたその質問は、俺にとって少し耳が痛いものだった。
「…ああ、いや、俺大学は外部にしたんじゃ。東京の大学通っとる」
「え、そうなん?せっかく付属やったんになして?」
「親父の仕事の都合とか…まぁ、俺にも色々あるんじゃ」
あんまり無粋な詮索するんやなか、と膝を叩けば、千歳はすまんと苦笑した。話に夢中でほとんど口がつけられていないグラスは汗をかいている。
俺がここ最近千歳に対しての態度が変わったように、千歳もまた俺に対しての態度が少し変わっていた。いや、雅雅とうるさいのは相変わらずだが、その声には確かに以前と違う色が含まれていた。それが何かと聞かれればうまく言葉に出来ないが、以前の千歳は店での俺のことを聞くばかりだったのに対し、今はなんというか、”仁王雅治”としての俺を知りたがっているように感じた。我ながらどこぞのポエマーだとは思ったが、きっとその考えは当たっていて、だからこそ千歳は持金が危うくなると早々に店を出て、俺の仕事が終わるまで店の外で待っていたりするのだと思う。
今日もタイムカードを切り、ポケットに入り切らないわずかな手荷物が入った鞄を持って外に出れば、裏口の横に座り込む大きな黒いかたまりが動いた。
「あ、仕事終わったと?お疲れさん」
「…別に、疲れとらん」
でかい体の前を通り過ぎるように歩き出せば、影のようについてくる。俺は学校のことがあるので基本的にアフターは行かない主義で、終電上がりで働いていた。それを誰に聞いたのか、必ずしもではないが、俺の出勤日はこうして店の外で待っている千歳と駅までの道を一緒に帰るのが恒例となりつつあった。(それは来店した日しなかった日を問わずで、来店しなかった日の上がりにはじめてここで声をかけられた時は死ぬほど驚いた)
千歳は俺の一歩後ろを歩きながら、今日一日の出来事や他愛も無いことを楽しそうに話しかけてくる。同じような日を何度繰り返しても、俺にはその気持ちが理解できなかった。
「…なぁ、お前、もうこげなとこ来んほうがええよ」
俺の言葉に千歳は心底不思議そうに呟いた。
「? なして?」
「なしてって…お前、最近来る頻度下がっとるじゃろ。ええ加減金もバカにならんじゃろうし、学校だってあるんじゃ」
「あ、俺に会えんで寂しかったと?」
「茶化すんやなか!」
千歳が金銭的に困っているだろうことは、今まで週に一、二度だった来店頻度が下がったことと、こうして仕事終わりに店の外で待っていることが多くなったことから予想は付いていた。それに会えたとしても駅までたかだか十分かそこらだ、そんなちっぽけな時間を共有するために、こんな暗がりで何時間も待つ必要なんてどこにもない。
「じゃけんもう店にも来んくてええし、待たんでもええよ。俺は絞りとるばっかりで、お前に何もしてやれん」
ここまでさせといて言えることじゃないが、もう俺なんかとは関わらないほうがいい。いや、最初からそうだったのだ。すまんの、と謝れば、後ろの鉄下駄の音が止まった。
「いっちょんそげんこつなかよ」
「は……?」
暗闇に煌々と輝く街灯に至近距離で顔を照らされながら、千歳はあっけらかんと続けた。
「あんな、俺、最近バイト始めたんばってん、これん結構楽しかばいた。俺時間に縛られるん嫌いやけん、雅に会うまでは自分がバイトするなんていっちょん考えたこつもなかったばい。自分で金稼ぐ喜びも、そいで会いたい人に会いに行く喜びも、自分がそぎゃんこつ出来るような奴やったっちこつも、どれも雅に会わんかったらきっといっちょん気付けんかった」
千歳は「俺は雅にもらってばっかりたい!」とどこか照れたように快活に笑った。それを見て喉の奥が締め付けられるように痛むのはきっと、こんな言葉を、笑顔を、向けられたことがないからだ。たぶん千歳のおかしさに俺も少々毒されてきている、そうとしか思えない。だって、同じあやまちは二度と繰り返さないと決めたはずなのに。
「……お前、どこまでアホなんじゃ」
「雅治限定ばい!あ、学校んこつは元々俺の性格やけん、気にするこつなかよ?」
頭ひとつ覆えそうな大きな手の平が、出勤前に気合を入れてセットした髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてくる。それに対して俺は「外では苗字で呼べ」と言うのが精一杯で、たどり着いた駅、初めて「またな」と言葉を交わして千歳と別れた。
乗り込んだ終電、暗闇に流れていく光の粒を横目に扉にもたれる。ひんやりとしたガラスに押し付けた頬の熱はいつまでも引かず、そしてそれから、千歳が店に現れることはなかった。
(20110610)
5
やってしまった。いや、ここはやられたと言うべきか。とにかくあの日仁王と別れた俺は、最寄り駅に着いてからしばし呆然とするしかなかった。
「…財布がなか……」
何度探ってもチリのひとつも出て来ないズボンのポケットを裏生地ごと引っくり返して途方にくれる。電車が最寄り駅のアナウンスを告げ飛び起きて下車したはいいが、どうやら居眠りをしている間に誰かにスられてしまったらしい。あれには学生証や仕送り口座の銀行カードなど、生活に必要不可欠なものが全て入っているというのに。終電では酔っぱらいを狙ったスリが多発していることはじゅうじゅう心得ているつもりだったが、最近始めたバイトの疲れやそれに伴う睡眠不足、あと仁王の顔を一目見れたことで気が緩んでいたのかもしれない。俺はほんの数十分前の自分の迂闊さを呪う。そしてなにより、財布には仁王にもらった名刺も入っていたのだ。
(まあ財布は元々金もほとんど入っとらんけんよかばってん、せめてあれだけでも返してくれんかね…)
すっかり人気のなくなった深夜のホームでため息を付き、機械音痴のため面倒臭がってさっさと連絡先を登録しておかなかった自分のものぐささを恨む。更にとぼとぼと向かった改札でもずっと握り締めていた為クシャクシャになった切符が機械を通らず、バタンと道を塞いだ改札機に強かに太ももを打ちつけた俺はあまりの踏んだり蹴ったり加減に半分泣きそうになるのだった。
「ここに来んのも久しぶりばい…!」
そんなこんなで失くした諸々の対応に追われ、自業自得なので次の仕送り日までは自分で生活費を捻出しなければならずしばらくバイト漬けになり (運が悪いことにスリに合ったのは仕送り直後だった)、そのせいでいよいよ単位が危なくなった科目の補講に出席したりとせわしない日々を送っている間にあっという間に時間は過ぎて、俺は今日ほぼひと月ぶりに仁王の店を訪れたのだった。
「いらっしゃいま…あれ、お久しぶりです」
「うん、久しぶりばい!」
「雅さんは今接客中なんですが、大丈夫ですか?」
フロントで久々に顔を合わせたボーイは俺を見るなりフランクな対応になり、更にこちらが聞く前に聞きたかったことを先回りで答えられてしまう。そして元凶の身で言うのもなんだが、こうして改めて訪れると男が男を指名するという不可思議な現象にも違和感無く対応してくれるようになったシュールな画に少しばかり苦笑してしまうのだった。
きらびやかな内装に飛び交うコールと笑い声。以前と変わらず通された狭いスペースから見渡す店内の様子は相変わらずだ。強いて違いを上げるなら、まだ開店したばかりだというのにお客の入りがいつもより多いことだろうか。早めに行けば空いてるだろうとふんで来たのだが、聞くところによると今日は月に一度のイベントデーらしい。自分のタイミングの悪さに臍を噛んだが、まあ楽しみはあとに取っておくのも悪くない。酒でも飲んで気長に待とうと思ったところで、その時はふいに訪れた。
(あ、雅治おった)
何気なく向けた視線の先に、特徴的な白い頭を見つける。席を立った仁王は先程俺を案内してくれたボーイのもとへ向かい、何かを話しているようだった。適当にチャームをつまみながら様子を見ていると、何だか慌てた様子のボーイを振り切ってこちらへ向かってくるではないか。
「…よぉ、久しぶりじゃの」
ひと月ぶりの対面に、仁王は座る俺を見下ろし無表情に言った。
「う、うん…久しぶりっちゃね」
それは俺にとっては待ちに待った再会だったのだが、どうやら仁王の機嫌はあまりよろしくないようだ。さてどうしたものかと鋭い瞳を見上げたまま固まっていると、仁王は変わらず無表情のまま「詰めてくれな座れんのじゃけど」と言った。
「え」
「…別に、嫌ならええけどな」
そのままふいっと背を向けようとする仁王に俺は慌てて声を上げる。
「わ!すまんすまん、こっち詰めるけん行かんで!」 すぐさま腰を浮かし奥へと詰める。そうして空いた一人分のスペースと、これ以上機嫌を損ねないように貼りつけた笑顔とをしばし交互に見やった仁王は何か言いたそうな表情のまま、静かに隣に腰を落とした。
「ほんなこつ久しぶりばいた〜。元気しとった?ちょっと痩せたんやなか?」
テーブルの上のボトルを掴むときに、シャツの袖から見えた手首が心なしか少し細くなったような気がするのは気のせいだろうか。
「別に。いうても一ヶ月くらいじゃろ、何も変わらんわ」
それより、お前こそてっきり新しいおもちゃにでも入れこんどると思っとったんじゃがな、という仁王の意味深な言葉に首を傾げる。
「おもちゃ?なんねそれ?」
「自覚がないんならええよ」
突き放すような言葉とは裏腹に、口調はやけに穏やかで。俺は仁王の意図が読めないまま、丁寧に作られた水割りに口をつけた。
「それより、こっち来てよかったと?あのボーイさん、さっきからずっとこっち見ちょるばってん…あ、もちろん俺は嬉しかよ?」
もしや他の客の接客途中だったのでは、という予感は当たりだったようで、仁王はあっけらかんと答えた。
「ああ、別にええんじゃ。イベントで来た初見の客でな。新規のポッキリ価格で遊んでいく奴より、固定で来てくれる奴の方が単価高いしバックが大きいからの…っちゅうわけでお前さん、今日はしっかり金落としていきんしゃい」
もう来なくていいと言ったこの間の殊勝な態度はどこへやら、仁王は口角を上げニヤリと笑った。少し近づいたと思った距離がまた店員と客に逆戻りしてしまったと思わないでもないが、何も焦る必要はない。時間はたっぷりあるのだから、これからまたゆっくり距離を縮めていけばいいと思ったし、なんだかいつも通りの仁王を見られて少し安心した。そして俺も久しぶりに自分の時間がとれた喜びで、今日だけはパーッと羽目を外そうと決めて来たのだから。
「あ〜…久しぶりに飲む酒ば美味かねぇ。ばってん熊本の地酒も恋しかばい。なぁなぁ、今度実家に言って送ってもらうけん、俺んち飲みに来ん?たいぎゃ美味かやつ飲ましちゃるばい、雅と一緒に飲みたかよ〜」
「も、あんまこっち寄りなさんな!お前重いんじゃ!」
「え〜、ひどかこつ言わんでよー。俺はこぎゃん雅んこつ好いとうのにー」
店も盛大に賑わい、本来ならば仁王をテーブルに戻そうと呼びに来る店員もドリンクや接客などの対応に追われ、端っこで酒盛りをする俺達のことなど誰も見向きもしないのをいいことに俺はここぞとばかりに仁王とスキンシップをはかっていた。
「ん、ずっと思っちょったばってん、雅ん体はよか匂いすっとね〜…」
監視の目がないのをいいことに、ぐっと抱き寄せた肩とうなじにかけてすんすんと鼻を寄せる。柑橘系の爽やかさの中にどこか蠱惑的な甘さが漂うそれは、大きく吸い込めば脳内麻薬のようにジンジンと響いた。銘柄を聞いて今度同じ香水を買いに行こうか。
「っおい、お前ええ加減に…!」
「雅ぁー…好いとうよー……」
白い首筋をまさぐるように顔を擦り付けて、しっぽの生え際に鼻を押し付けた。酔ってはいないものの、酒で少し赤みを増したうなじを舌でなぞればどうなるだろう、などと考えるほどには熱に浮かされていて、そろそろ殴られても文句は言えないなと他人事のように考えたところでいよいよ仁王が腰を上げた。
「まさ、」
「便所じゃ!!」
顔も見せないまま人の隙間を縫い、ズンズンと店の奥へと進んでいく背中を見送りながら、ソファの背もたれに体重を預けた。
(うーん、流石にやりすぎたと…?)
先程まで薄い肩を掴んでいた手のひらをシャンデリアにかざしてみる。
(それに、やっぱりちょっと痩せちょったばい)
仁王が帰ってきたら謝りついでにラーメン屋にでも誘おうか、などど考えながらまた酒を舐める。しかしそんな呑気な考えとは裏腹に、何分経っても仁王は帰って来なかった。もしやもう他のテーブルに?と思ったが、混み合った店内のどこを見回してもその姿はなく、奥から誰か出てくる気配もない。もしや何かあったのではと俺も席を立ち、混み合う店内をすり抜けて仁王のあとを追った。
ほぼ全ての者が来店対応で出払ったバックルームの中、少しばかり防犯が心配になりながら奥の従業員トイレへと向かう。俺もここを訪れた時から女性客用のトイレを使うのが気が引けて、従業員用を使わせてもらっていたので場所はわかるが、たどり着いた薄い扉の前は人気もなく静寂に包まれていた。
「雅ー、ここにおっとー?」
ノックをしてみても、中からは何の返事もない。ここまでは一本道なので行き違いになったということはないが、もしかしたら自分が気付かなかっただけで、既に店内に戻っているのかもしれない。一応の確認でドアノブを回すとそれはあっさりと開いた。
「雅!?」
そしてそこには、床にぺたりとしゃがみこみ、便器にもたれるようにしてうなだれている仁王の姿があった。
「雅!どげんしたと!?雅!!」
飲み過ぎたのだろうか、虚ろな目でしんどそうに浅い呼吸を繰り返す体を抱き込むように支えて口元を拭ってやる。すると仁王は俺の手を弾いて後ずさった。
「っ、触るんやなか!!」
「雅…?」
それはまるで全身の毛を逆立たせて威嚇する手負いの獣のようだった。壁にもたれてはあはあと息を上げる姿にどうしたのかと思うが、立てられた膝の不自然な動きに俺はある違和感を抱き仁王との距離を詰める。
「雅、ちょっと見せてみなっせ」
「や、いやじゃ!」
「大丈夫、何もせんから」
「や、やじゃぁ!っあ、やあぁっ!!」
狭いトイレの中、後ろを壁に阻まれ逃げ場がある訳もなく、出来る抵抗といったら子供のようにいやいやと首をふることだけで。そして膝頭を掴み強引に割り開いた脚の間に見えたのは、俺の予想どおりのものだった。
「……勃っとう」
細身のスーツを着ているからか、股間の膨らみがやけに目立つ。独り言のつもりで思わずこぼれた言葉だったのだが、我ながら気遣いの足りないあけっぴろげな言い方だったと後悔したのは、仁王がかあっと頬を染め弾かれたように顔を覆ったからだ。
「…ッ!!お、おまえが、お前がわけわからんこと言うから…!!」
「俺?俺が何かしてしまったとや?」
うかがうように覗き込めば、仁王は見られたくないと言うようにそらした顔を手で隠す。
「も…お前わけわからんのじゃ!いきなりいなくなったと思えばまたいきなり来て、わけわからんことばっかり言う、も、こげなんおかしい。俺じゃないんじゃ…!!」
しゃくりあげながら懸命に紡がれた言葉はどれも抽象的で、きっと仁王自身もよくわかっていないのだろう。正直意味を全て汲み取れたかと言われれば自信はないが、とにかくここまで不安定になってしまったのは俺のせいらしい。
そしてこんな状況で申し訳ないことに、強引に脚を割り開かれ、片手で勃起した股間を隠そうとしながら「もう放してくんしゃい」と蚊の鳴くような声で懇願する仁王の姿に俺は少なからず興奮してしまっていた。
「雅、雅。泣かんで?すぐ楽にしちゃるけん」
「や、何もせんって…!」
「うん、だけん俺のせいばってん、責任はとるけん」
まだ何かを言おうとする唇を唇でふさぐ。見開かれた仁王の目はくちづけされたことに対する驚きよりも、嘔吐したばかりなのに、という意味合いのほうが強いのだろう。ほとんど吐くものが無かったのか舌でまさぐった口内に吐瀉物はほとんどなく、胃液の酸っぱさだけが広がった。抵抗しようと押し返してくる手には、嘔吐後特有の倦怠感と酒のせいでほとんど力は入っていない。舌を吸いながら片手で両腕を纏め上げ、逆手で股間を揉んでやる。性器の形をなぞるように強めに撫であげればビクンと腰が跳ねた。
「っぁ、ふぁあ…っ!」
「ん、ちんぽいじられて気持ちよかねー?もっと気持ち良くしちゃるけん、ちょっとだけ腰浮かせてくれんね?」
「や、も、あぁあっ!」
「大丈夫、強姦げなこつせんよ。気持ちよかこつだけばい」
「うう…っ」
安心させるように耳たぶをやわく食んでやる。ゆっくりと背中をさすれば、遠慮気味に少しだけ腰が浮いた。
「よか子よか子。いっぱい気持ち良うしちゃろうね」
纏めていた両手を開放し、そのまま自分の首に回させる。ベルトを緩め膝までズボンを脱がすとグレーのボクサーパンツが顔を出した。
「ああ、先っぽのほう色が濃くなっとうね。中もエッチな色しとるばい」
ゴムを引っ張って覗き込むと、上を向き我慢汁でテラテラと光る先端がとても卑猥だった。
「ぃ、嫌じゃ…!」
「ん?ああすまんすまん、早く触ってほしかねぇ」
もっと時間がかけられたら上半身も脱がせて更に良くしてやりたかったが、如何せんここはホストクラブのトイレ(しかも従業員用)だ。いくら店が賑わっているとはいえ、いつ人が入ってくるかわからない場所でゆっくりしている暇はなかった。
ずるっとパンツを下ろし、勢い良く飛び出した性器を掴んで上下に擦ってやる。
「ぁんっ!!ぁっ、あっあっ!」
「ははっ、雅、そげなむぞか声出したら誰か来てしまうとや?」
与えられる快楽に全身で浸る可愛らしい様に喉を鳴らせば、仁王は一瞬我に帰ったように唇を噛み締める。俺はそれが少しだけ悔しくて、もう一度噛み付くように口づけた。腰を抱いて、互いに顔の角度を変えながらしばらくねっとりと舌を絡ませあう。竿から徐々に上へあがり、カリや先端の尿道口を親指でくりゅくりゅといじってやると、仁王の体が震え出した。
「ち、ちとせっ…!」
「ん…、もうイキそう?」 唇の間に唾液の糸を垂らして問えば、白い頬を蒸気させコクコクと頷く。
「よかよか、いっぱい出しなっせ」
「ぁっあっ!い、あぁああっ!!」
それを合図に全体を勢い良く抜き上げるのに加えて、睾丸をやわやわと揉み込んでやる。最後に先端を押し潰すように捏ねると、俺の肩に顔を埋めて声にならない声を上げた仁王は、背中を大きく弓なりにしならせて達した。そのままぐったりと意識を失った体を抱きとめ、べとべとの股間をティッシュで清めてやる。
正直こんなことになるとは全く思っていなかったが、子供のように泣きじゃくり感じまくる仁王は、想像の遙か上をいく可愛さだった。すうすうと穏やかに眠る顔の、赤い目尻に頬がほころぶ。
しかし行為の余韻に浸る間もなく、俺には目下の問題があった。床には手のひらで受け止めきれなかった精液。その独特の青臭い匂い。そして何より、気絶してしまった仁王。
「…どうすっかねぇ、これ」
(20110620)
6
それから仁王が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
「……っ、ん…」
「あ、起きたと?」
自室のベッドで寝返りを打ち、うっすら目を開けた仁王は頭を押さえて緩慢に起き上がる。
「は…?ここ、って俺んち……何で、おまえが」
「はは、一晩越させてもろたばい」
昨夜はあれから、気絶してしまった仁王の衣服を整えて床を拭き、不幸中の幸いにもスプレー型の消臭剤があったので、それを振りに振りまくってトイレを後にした。仁王をおぶって支配人(ああいう店では代表と言うのだろうか?)のもとへ連れて行き、その日は店の者も看病できるほど手が空いておらず、もう使い物にならなさそうだったので酔いつぶれたらしいと嘘を言って早退させてもらったのだ。
そして大変だったのはここからだ。仁王は細身ではあったが体格もそれなりで、気を失った人間は更にその重さを増す。このまま俺の家まで電車に乗りおぶって帰るわけにもいかず、かといってタクシーで帰れるほどの持ち合わせもなかった。そこで一抹の望みをかけ、ロッカールームで悪いとは思いつつ仁王の財布から免許証で住所を確認させてもらったというわけだ。
「いや〜、店からそぎゃん離れちょらんとこでよかったばい」
そうでなければ近場のネットカフェまで歩いて夜を越そうと思っていたところだ。
「あ、それよりどっか気分悪いとことかなか?一応熱ば…」
本当に糸が切れるように倒れこんでしまったので一応確認しておこうと腰をあげた時、昨夜の服装のまま寝ていた為クシャクシャになってしまったシャツを纏った仁王は、伸ばした俺の手を避けてぽつりと言った。
「…別に」
「あ、そう?なら腹は減っとらんね?今台所借りてなんか…」
「いくらじゃ」
「は?」
部屋を出てキッチンへと向かおうとした背に、予想外の言葉がかけられる。
「ここまでのタク代、結構したじゃろ」
「あ、あぁそげなん気にせんでよかよ!何とか手持ちギリギリ足りたけん」
それに元はといえば俺のせいなのだからと告げれば、仁王はさっと顔を曇らせた。そしてそのままベッドから起き上がり、はだけた柄シャツに皺の寄ったスラックスというだらしのない格好で財布を取る。
「わっ」
「取っときんしゃい」
ぺたぺたと裸足でフローリングの床を踏み歩み寄ってきた仁王が俺の胸元に押し付けたのは数枚の万札だった。
「こ、こげなんいらんとよ!」
「ええから、取っときんしゃい」
無理矢理俺の手に万札を握らせると、仁王は部屋へと踵を返す。
「迷惑かけてすまんかったな。安いが今までの手間賃じゃ、もう帰りんしゃい」
それだけ言うと皺になった衣服を脱ぎ捨て、まるで俺の存在などなかったかのように着替えを始める。けれど、そんな言葉で納得できるわけもない。せり上がる衝動に突き動かされて、剥き出しの白い肩に手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待たんね!!今までってどういうことばい!それに俺は自分が雅に会いたいけん通っちょっただけで、こげなんいらんけんきちんと昨日の話ば…」
「ッ…!それが嫌じゃって言っとるんじゃ!!」
強引に振り向かせた表情は、俯いていて見えない。
「じゃから、嫌な思いさせてすまんかったち言うとるんがわからんのか!!元々お前とは赤の他人じゃ、関係ないきに二度と俺に関わるな!!」
「嫌な思い!?そげなん誰が言ったと!?確かに中学ん時は話したこつもなかったばってん、こうやって会ってあげなこつして、俺はもう立派な当事者ばい!!俺が何かしてしもたなら謝るけん、あぎゃん言葉じゃなくてきちんと雅の気持ち聞かせて欲しかよ!!」
もうここまでくると声のボリュームや近所迷惑など二の次で、互いに自分の意見を押し通そうと必死だった。離せ離さんと押し問答が続き、最後の方はお互い肩で息をするそんな中、ずっと俯いていた仁王が顔を上げ口の片端を吊り上げて笑った。それは見る者によっては挑発的で、また自嘲的でもあったかもしれない。
「…ほう、そこまで大口叩いたんじゃ。覚悟はできとるんかの」
そんなに聞きたいなら聞かせてやる、とどこか吹っ切れた様子で俺の手を振り払い、その背中はリビングへと向かう。歩きながら羽織ったシャツの隙間から見えた白い肩は少し赤くなっていて、俺は心中で詫びた。
生活感のないリビングに置かれた小さめのダイニングテーブルに向かい合い、ペットボトルのミネラルウォーターに口をつけた仁王はこともなげに「俺はホモじゃ」と言った。対して俺はぱちぱちとまばたきすることしか出来ず、多少身構えていてもこうして本人から改めて口にされると対応できないものなんだなぁと他人事のように思っていた。
「附属やめて外部の大学選んだんもそれが関係しとる。…何じゃ、言葉も出んか?」
仁王は俺の前で頬杖をつき、手持ち無沙汰にペットボトルをテーブルの上で左右に揺らす。そのたび流動体が不規則に形を変えた。
「…いや、何となくそうかなとは思っとったばってん、なんというか」
「ハッ!やっぱりの。何じゃ、それも才気か?」
そうやっていくつ人の秘密を暴いてきたんじゃと笑う仁王に少しだけ悲しくなる。発した自らをも傷つけるような言葉、仁王にここまで言わせてしまったのは、間違いなく俺のせいだった。
「ううん、才気じゃなかよ。なしてか俺、むかしっから兄弟構成とかそういうの、見るだけでわかってしまうんばい」
「ほう、それはまた便利なもんじゃの。でも流石のお前も、まさか俺がトイレでゲロ吐きながらちんこおっ勃ててるとは思わんかったじゃろ」
仁王はどこか自棄になったように、笑ってそう吐き捨てた。
「これでよくわかったじゃろ?俺はどうしようもない好きものなんじゃ。これに懲りたらもう、俺に近づくんはよしんしゃい」
それだけ言うと腰をあげ、ひらひらと手を振りまた部屋へ戻ろうとする。
「ちょ、ちょっと待たんね!!俺はそげなんいっちょん気にせんし、げんに昨日だって…!」
反射的に腕を掴んで引き止める。仁王はその手を見つめながら、これまでになく冷めた声で言った。
「…あんなぁ、お前、なんぞ勘違いしとらんか」
「勘違い…?」
言葉の意図が読めずそのまま返せば、めでたいやつじゃのと鼻で笑う。
「さっきのは別にお前のため思って言ったんやなか」
掴まれた腕を振りほどこうともせず、仁王はこんな時だけ落ち着いた目で淡々と続ける。
「ええか、俺はな、これでも普通の恋愛がしたいんじゃ」
普通に女の子と付き合って、互いに買い物で服を見立てたり、夜景を見に行ったり、親へ挨拶に行って多少気まずい体験をしたり。そして最終的にはささやかでも構わないから結婚式も挙げたいし、子供だって欲しい。
「俺はな、そういう至ってフッツーの恋愛がしたいんじゃ。人前で堂々と手も繋げんで、キスひとつするのも後ろめたさを感じながらコソコソ、なんてまっぴらごめんぜよ」
同性しか愛せない身でありながら、男同士なんて百害あって一利なしの、まさに不毛な恋だと仁王は言った。俺は正直驚いていた。何となく完璧なノンケではないだろうとは思っていたが、まさかここまで思い詰めているとは思わなかったからだ。
「…ばってん、そいでも俺は…」
「何じゃ、お前が女になって俺の子でも産んでくれるんか?ハッ!無理じゃよなぁ、つまりはそういうことじゃ」
わかったら離せと腕を振りほどいて背を向ける。もはやそれを繋ぎとめる言葉もない。けれど離れていく背中を今見送れば、微かに絡みはじめていた俺達の糸はここでちぎれてしまうとすべての細胞が告げていた。そしてそうなれば、俺達の道が二度と交わることはない。
(……こげな、こげな終わり、俺は認めんばい!!)
先程詫びたことなどもう忘れて、また強引にその肩に手をかけこちらへ向けさせる。そして文句を言わせる暇も与えず、薄い体を思いっきり抱きしめた。
「…ッ!おまえっ」
「確かに俺は子供ば産めん!!」
言い聞かせるように叫んだ声は、部屋中に響く。
「女の子とするみたいにデートとか、結婚とか、叶えてやれんこともいっぱいあっと思うけん、ばってん昨日はあげに感じてくれたとや!?」
昨夜の出来事に触れれば、腕の中の体が少しだけ強張った。
「俺は嬉しかったばい、それに俺ん勘違いじゃなければ、痩せたのも吐いて勃ってたのも全部俺のせいじゃなかと!?」
俺がしばらく店に行かなかったから、俺が冗談ぽくとは言え、好きなどと口にしたから。
「ほんとは雅だって俺んこつ、ッ!」
「黙れ!!」
続く言葉を口にするやいなや、腕の中の仁王が暴れだす。背中をドカドカ容赦なく叩かれて、正直ソファで一晩背中を丸めて眠ったバキバキの体には響いた。
「嫌ばい!!絶対、うんって言うまで離さん!」
「うっさい!!離せこんアホォっ!!」
「アホでもバカでも構わん!!どうしても俺から逃げるち言うなら、ここで無理矢理に抱き潰してもよかよ…!!」
きっとその時のがむしゃらな俺達は、端から見れば見ていられないほどみっともなかったと思う。でも例えどれだけの醜態を晒そうとも、ここで腕の力を緩めるわけにはいかなかった。
「っはな、離せぇ…っ!!」
くぐもった頼りない声に、背骨が軋むほど腕に力を込めることで答える。銀色の頭ごと強く掻き抱けば、背中を叩く腕が徐々に弱まると同時に、肩口にじわりとあたたかいものが広がった。
「……絶対後悔させんばい。俺といてよかったっち思えるように、何があっても絶対世界一幸せにするっち、約束すっばい」
好いとうよ。てのひらで包むように抱いた頭をゆっくりと、感情を流し込むように撫でればズッと鼻をすする音が聞こえた。閉じ込めた腕の中、ゆっくりと顔を上げた想い人はウサギのような目をして、射殺さんばかりの鋭さで睨み上げてくる。
ようやく、その顔が見れた。
「……ッ!ここまでしてっ、もし少しでも後悔させたら、死んでも許さんからな…!!」
虫くらいならその視線だけで殺せてしまいそうだ、と思う反面、頬を濡らしながらしぼりだされたその声に、俺はどうしようもなくその全てを守ってやりたいと叫ぶ心の産声を感じていた。
そうだ。きっと出会ったあの日から、俺はずっと仁王とこうしたかったのだ。
「よかよか、雅治に殺されるなら本望ばい!」
あ、もちろん約束は絶対守るばい!と大事なところを付け足せば、仁王はもうついていけんわと軽く身じろぐ。けれど少しだけ赤くなった耳にわきあがる衝動が押さえられず、俺は破顔してもう一度思いっきり仁王を抱きしめた。
「絶対、ぜーったい幸せにすっばい!!」
「ぐぇっ!!ちょ、も、わかったから離しんしゃい!」
「折角だけんもっと堪能すっばい!」
「ア、アホかっ!!」
その存在を確かめるように、いつまでも強く抱きしめる。落ち着きがなくもぞもぞと身じろぐ体の、赤くなった目尻に音を立ててキスを落とせば、仁王はまたひとつ涙を零して今度こそ笑った。
「あ、やっと笑ってくれたばい」
それは仁王と出会ってから、はじめて見る心からの笑顔だ。
「…おっまえ、アホじゃな。…ほんに、希代の大アホじゃ」
「雅治限定なら悪くなかろ?」
そしてこんな軽口に対して、返ってくる言葉はもうわかっている。今にも飛び出してこようとするその言葉ごと溶かすように、両頬を包んで唇を重ねた。
(20110707)