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先輩登場前に書いたので四天テニス部に対する捏造があります。
部室で現三年を送り出し場所を変え一人でくつろいでいると、わずかに開いていたドアが軽くノックされる。その音に我ながら間延びした声でどうぞと答え振り返ると、学ランの左胸に赤いコサージュをつけた白石が立っていた。
「なんや、帰ったんやなかったんか」
「うん。ちょっとオサムちゃんと話したいなぁ思って」
今時間ええ?と尋ねる左手には、先程校長からひとりひとりに渡された証書の筒が握られていた。
「かめへんで」
入口に立つ白石に中へ入るよう促し、手近なソファに座らせる。黒皮のそれは俺の赴任前からここにあるようで、おそらく長年使用されているのだろう。すでに尻馴染みがいいどころか腰を下ろせばどこまで沈むのだと思わず心配になるほどクタクタになっていた。
「よう似合うとるやん、それ」
安い素材でありながら彼が纏うと薔薇を思わせるような赤いコサージュは、すらりとした長身で学ランを着こなす白石の姿をいつにもまして凛々しく引き立てていた。しきたりとして在校生につけてもらうことになっているそれが彼の胸に咲くまでに、きっと多くの者が競って名乗りをあげたことだろう。
「ほんま、モテる男は大変やなぁ」
女子の軍勢に迫られたじろぐ姿を想像し、くくっと喉を鳴らした。
「もう、茶化さんといて」
「まぁまぁうらやましいこっちゃ。で、結局誰につけてもろたん?」
「財前に頼んだ」
「うっわ、なんやそれ!」
そんなナリしてほんま女っ気のないやっちゃなぁと半ば呆れて、別にええやん!と顔を背けられたところで後ろで沸かしていたコーヒーメーカーの抽出が終わる頃合いだ。
「ブラックでええやろ?」
「うん」
ドリッパーを下ろし、ふたつ並べたマグカップへ熱いそれを注ぐ。
「ん」
「おおきに」
カップを受け取りひとつ口をつけた白石は、苦い、ならまだしも小さくまず、と呟いた。
「っかー、これやから舌だけ肥えたおぼっちゃんは!」
ええか、お前らが家で肉食うてる時にオサムちゃんは霞食って生きとんねんぞと思わずやさぐれたくもなる。
「ちょっと、オサムちゃん何怒ってるん?俺は豆やなくて、入れ方が悪い言うてんの」
雑味が多くなるからフィルターの縁には注ぐなとかお湯の温度は82℃から85℃だとか、それはまさに几帳面な白石の性格そのもので。更にさんざん説明した挙句、まぁオサムちゃんに言うても無駄か、なんてことを言いだす始末である。
彼曰く雑味が多くて飲めたものではないコーヒーにちびちびと口をつけつつ聞き流していたら白石がぽつりと、今度は俺が淹れたるわと言った。ぶあついマグカップの中で、黒い液体が揺れる。
「…だってよぉ考えたら、俺が淹れてあげたことってなかったよな」
何で今になって気づくんやろ、とわずかに感傷をにじませ細められた瞳に、相変わらず年齢にそぐわない表情をする子供だと思う。
日本地図が描かれた大きなパネルで隠してあるもらいもののコーヒーメーカーと、並べられた三つのマグカップ。めったに人が立ち入らない社会科資料室は俺の城だった。
「…これ、返そか?」
「ええよ、オサムちゃんにあげる。そのかわりっちゃなんやけど、俺もコレ、もらってええかな」
「好きにし。もともとお前に持ってきたもんや」
「おおきに」
白石とここでこうして話しをするのは、もう何度目になるだろう。俺がここへ赴任して二年。それは同時に、白石がテニス部で部長を務めた期間でもあった。
「懐かしいな」
俺の気持ちを代弁するかのように白石が言う。
「オサムちゃんがうちに来た日のこと、今でも覚えてるわ」
それは二年前、俺がここへ赴任しテニス部の顧問を言い渡された時のことだ。
「オサムちゃん、コートに来て俺らみんな集めたと思ったらいきなり走り出して、何かと思ったらコートの外でゲーゲー吐いてるんやもん」
「しゃあないやろ、オサムちゃんも慣れへん環境でいっぱいいっぱいやったんや」
「全然しゃあなくないわ。ただの二日酔いやろ」
まさか新しいコーチが来て早々、挨拶より先にゲロの処理させられるとは思わんかったわ。白石はそう言って、暖を取るようにカップを両手で包む。
「…そんで一番何が驚いたって、吐ききってちょっと落ち着いたと思ったら背中さすってた俺に向かって、『今日からお前が部長や』やもん」
あん時はたまげたでほんま、と笑う白石同様、俺もその日のことはよく覚えている。
「真っ先に来て介抱してくれたんお前だけやったからな」
「なんやそれ」
冗談とも本気ともつかない言葉に白石が笑う。
俺は正直、テニス部の顧問などやる気じゃなかったのだ。相性や能力を鑑みてオーダーを考えては休日返上で大会や試合に生徒を引率する。もちろんそれに対する手当など雀の涙で、正直部活の顧問なんてボランティアに近い。
そんな折に嘔吐しながら、背をさすってくれる腕に礼を言おうと顔を上げたときの衝撃を今でも忘れられない。一年時からテニスの聖書と呼ばれ、ゆくゆくはこの四天宝寺を牽引していく存在がいるということは先生方から聞いていた。そして顔を上げれば、そいつは確かにそこにいた。
(なるほど、勝ちたそうな顔をしている)
名前も知らなければ顔も知らない。けれどそいつがそうだという絶対の確信があった。
当時の四天宝寺中テニス部は強豪校でありながらも、今の実力主義よりどちらかといえば年功序列の風習が強く、実力のある生徒でも低学年は球拾いや雑用はもちろんいくら効率が悪かろうと先輩の決めた規律には絶対服従というちょっとした悪習があった。そして見上げた瞳は、もっと高みへ昇りたいと訴えるようにくすぶっていた。
「まぁ、お前にはさんざん苦労かけてもうたな」
後悔しとるか?と聞けば、白石はまさか!と声を上げた。
「むしろ俺に部長させてくれたこと、感謝しとるくらい。…ほんま、おおきに」
「なんや、えらい素直やんけ」
珍しく殊勝な態度をからかえば、ええやん最後くらいと笑われる。
「…だってあの時、オサムちゃんがおったから俺は」
「アホ言え。俺はなんもしてへんで」
今白石が持っているものは全て、間違いなく白石自身で勝ち取ってきたものだ。それでも俺が何かしたというのなら、ただ少し風を吹かしただけ。遮蔽物を取り除きほんの少し風を送れば、小さな火種はみるみるうちに予想を超えてはるか高く燃え上がった。見ているこちらを圧倒すらしたその美しさを思い出しながら、頭のどこかで白石の言葉を反芻する。
(おおきに、か)
その言葉を言えるようになった今日まで、どれだけの葛藤があっただろう。
今でこそ部員に慕われ尊敬されている白石だが、最初から風当たりがよかったわけではない。まぁ当時いきなり現れたコーチの突然の指名で二年生ながら部長になったのだ、ただでさえ気の強い者が集まる運動部で白石をよく思わない輩がいるのは当然のことだった。もちろん二年生にして全国常連の強豪校の長を担うプレッシャーも並大抵のものではなかっただろう。
とにかく生徒間のやりとりに大人が口を出しても、顧問が肩入れしただの贔屓だので悪化はすれど状況が好転することはほぼないと知っていたので過干渉はしてこなかったが、ある時俺はとっておきの秘密だと言ってこの場所を教えた。そしてその日から、白石はよく昼休みや部活の無い放課後など時間が出来るとここへ訪れるようになった。話すことは悩み相談でも何でもない、俺の食習慣への忠告だったり昨晩見たドラマの話だったり本当に他愛のないことだ。もともと人に心の内をさらけだすタイプではないのだろう、あえて部活に全く関係ない話題を選んでいたのかもしれない。だからきっと流した涙があるとしたら、それは彼自身しか知らないことだ。
少しばかり感傷の味がするコーヒーをあおり、飲み口を親指でぬぐう。俺が持つマグカップにはいかにも女子中高生好みのデフォルメされたウサギのキャラクターがプリントされていて、白石のマグカップには俺の住む町名が力強い書体で書かれている。これはいつまでも紙コップでは不経済だろうと町内会のゴミ拾いに参加した際にもらった粗品を引っ張りだして白石用に持ってきたものだが、くしくもその日白石も自宅から使っていないマグカップを見つけて持参していた。
「あ、なんや持ってきとったん」
ならこれはええかと自分が持ってきたカップをしまいかけた俺の言葉に、白石はぶんぶんと首を振った。
『オサムちゃんが持って来てくれたので飲む!』
さらに続けられた「せやからオサムちゃん俺のこれ使って」という要望に応える形で俺たちは互いのカップを交換して使うようになり、本来俺が使っていたシンプルな黒のそれはいまや埃をかぶり用途を変えペン立てとして活用されていた。
そんないわくつきのマグカップを窓際の定位置に置き直すと、コツンコツンと小石がガラスを打つ。少し長話が過ぎただろうか。
「…飲み終わったんならもう行きや」
待たせとんねやろ?その声に白石は首を傾げる。
「あれ」
開けた窓の下を指してやれば、立ちあがり覗きこんだ瞳がぐっと揺れた。
「…ごめんオサムちゃん。俺、行くな」
「おん。はよ行ったり」
これありがとう、と律儀に礼を述べ扉へ向かうその姿は、右手にマグカップ、左手に証書といういささか奇妙ないでたちだったが、その背中は一本筋が入ったようにぴんとのびていた。
(…何も変わらんなぁ)
二年前からこの教室で幾度となく送り出してきた真っすぐな背中。ただひとつ違うのは、今日見送れば彼が再びこのドアを開けるのはきっと二度とないということだけだ。
「白石ぃー!俺もなぁ、お前部長にしてよかったわー!」
ガラガラと戸が開くと同時に、端正な顔がこちらを向く。
「…な、最後くらい、素直になってもええもんなあ?」
「っ……当たり前やん」
そうまなじりを赤くしながら気丈に笑った次の瞬間、勢いよく頭を下げられる。
「ありがとうございました!!」
教室だけでなく、廊下中まで響き渡る声。こだまするその中にいるうちに、走り出した姿はすぐに見えなくなった。残ったのは、ひとりぽかんと立ち尽くす自分だけ。
「…は、ハハッ…なんやアイツ、まともに礼言ったんはじめてちゃう…? ッ、ほんま」
思わずガシガシと髪を掻き、式典の為珍しくセットしてきたそれが崩れる。ああ、本当に歳を取ると涙もろくなっていけない。懐からひとつ、煙草を取り出し火をつけた。
もう冬も終わりが近い。見下ろした校庭の木々は新たな命を宿らせ、新緑の蕾はいまかいまかとその時を待っている。
「きばりや、青少年」
それぞれ小突き合いながら校門へ向かっていく背中はいつの間にか、そのどれもが大きく立派なものになっていた。
(20110519)
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